本来大相撲は芸能であり、興行です。この点をしっかりと理解していないと議論が逸れてしまいます。
国技と自称し始めたのは明治の頃であり、それまでは国技と言わなかった。有力者が宴席に呼べば幇間のようなこともして生活の糧としていた。
さて、メールでの八百長が話題になっているが、何を今さらである。その取り組みの際、下にいた審判は誰も八百長と見抜けなかったではないか。審判は素人ではない、元力士プレイヤーであった。土俵にいる力士の星勘定が「危険水域」にあり自分の体験と照らし合わせれば、それなりの審判が出来たはずだ。それがバレなかったのだから当該力士は演技者として立派である。分かっていて見逃したのならば審判員も同罪である。
近代スポーツの理念を相撲に求めては議論が成立しない。もし見たければ草相撲か学生相撲を見ることだ。
闘う姿を神様に奉納し、観客もその演技を楽しめばよい。20歳そこそこの力士に高い精神性を求めては力士が可哀相である。高級時計や金鎖で得意になっている姿が実像である。
大相撲がなくなれば力士も困るが、周辺にいる何倍かの人たちも困る。つまり凭れ間だから大相撲は絶対に安泰である。
国技と自称し始めたのは明治の頃であり、それまでは国技と言わなかった。有力者が宴席に呼べば幇間のようなこともして生活の糧としていた。
さて、メールでの八百長が話題になっているが、何を今さらである。その取り組みの際、下にいた審判は誰も八百長と見抜けなかったではないか。審判は素人ではない、元力士プレイヤーであった。土俵にいる力士の星勘定が「危険水域」にあり自分の体験と照らし合わせれば、それなりの審判が出来たはずだ。それがバレなかったのだから当該力士は演技者として立派である。分かっていて見逃したのならば審判員も同罪である。
近代スポーツの理念を相撲に求めては議論が成立しない。もし見たければ草相撲か学生相撲を見ることだ。
闘う姿を神様に奉納し、観客もその演技を楽しめばよい。20歳そこそこの力士に高い精神性を求めては力士が可哀相である。高級時計や金鎖で得意になっている姿が実像である。
大相撲がなくなれば力士も困るが、周辺にいる何倍かの人たちも困る。つまり凭れ間だから大相撲は絶対に安泰である。