消印:HANKOU 9 JUN 00 (漢口 1900年6月9日) I. J P.O.
大日本東京参謀本部
大尉小山秋作殿
親展
清國武昌
武備学堂
久米徳太郎
〔蔵書目録注〕
・大原氏 大原武慶
・趙總督 張之洞
・久米大尉 久米徳太郎
なお、『対支回顧録』『東亜先覚志士記伝』等に、久米徳太郎の伝がある。
下の文は、『対支回顧録』 東亜同文会編 下巻 列伝 の「〇久米徳太郎君(陸軍少將)」の一部である。
〇久米徳太郎君(陸軍少將)
然るに明治三十一年春、我參謀本部の宇都宮太郎大尉が武昌に往訪して世界の大勢上、日支忘仇親善の必要を力説強調するや、昨の排日の張本人は、忽ち掌を反す如く熱烈な親日論者に變じ、同年我將校下士を傭聘して武備学堂の教習に充て、從來獨逸式陸軍建設のため傭聘してあつた、獨逸將校フォックス中尉に對する待遇に比し遜色なき待遇を與へ、翌三十二年に至り新たに地を武昌蛇山南麓下の好位置に卜し、日本式住宅三棟を新築し、之に對する一切の設備調度は張總督の指圖に出で其の規模宏壯、毎棟相當の廣さを有し、費用銀一萬餘兩を要した。第一棟は先着の大原大尉、第二棟は工兵大尉平尾次郎、第三棟は、即ち君が二年有餘の假寓となつたのである。
〔中略〕
三十三年一月參謀本部出仕に轉じ、此に淸國湖廣總督張之洞との招聘契約成立し、平尾工兵大尉、野村岩藏曹長、木下健太曹長等と共に上海に渡り、長江を溯つて武昌に到り、蛇山下の新屋に入つた。爾後同地武備學堂の教習を擔當し、日本式陸軍の基礎を築くに孜々勤勉、質實二つながら大いに成績を擧げた。從つて張總督以下、張彪、呉元愷等、軍界上層部の信賴を博し、黎元洪其他後年著聞した武官多數が聴講して君の薫陶を受けたのであつた。殊に張總督の親日態度が、一と度長江一帶を風靡するや、四川、安徽、江蘇、雲南、福建の各省亦爭うて日本武官を招聘し、又一面に於ては遣日留學生が一時の盛觀を呈した。君等の應聘と在任中の信用とが實にその前軀となつたものである。
三十五年三月應聘期間滿了し、近衞歩兵第三聯隊中隊長に補せられて歸朝し、〔中略〕四十四年十一月參謀本部附となり、同時に淸國に差遣された。
當時恰も武漢に革命の烽火揚り、歸趨する所を知らざるの狀を呈したので、參謀本部は武漢に因縁深き君を派して革命黨との間を善處せしめたのであつた。四十五年三月歩兵中佐に任じ、近衛歩兵第四聯隊附となつて歸朝した。