大日本東京参謀本部
陸軍歩兵大尉小山秋作殿
親展
消印:SHANGHAI 4 JAN 02 〔 上海 1902年1月4日 〕 I. J. P. O
清國湖北省漢口
木野村政徳
〔蔵書目録注〕
・井戸川 井戸川辰三
・久米大尉 久米徳太郎
なお、『対支回顧録』に木野村政徳、久米徳太郎の、『東亜先覚志士紀伝』に木野村政徳の伝がある。
下の文は、『対支回顧録』 東亜同文会編 下巻 列伝 にある「〇木野村政徳君」の一部である。
〇木野村政徳君
君は明治十二年末、桂〔桂太郎〕中佐の發案に依る陸軍の淸國留學生十四名中の一人で、一生を軍部に奉職した名教授、名通譯官の名を博し、又日支の提携に盡した留学生團中出色の逸材であつた。文久元年二月十七日相州小田原城下に生る。
〔中略〕
三十一年四月非職を命ぜられた。是は大原武慶大尉が湖廣總督張之洞の聘に應じて武昌に赴任するに際し、君も亦通譯として薪銀百四十兩の約を以て招聘契約が成立したためである。斯くて武昌の武備学堂に在つて大原大尉の講述を資けると共に、其の日支親善工作にも参與し、平尾〔平尾次郎〕中尉以下四名の將下士の増聘を實現し、且つ駐在留學の神保〔神保濤次郎〕一等軍醫を極力推薦して張總督の衛生顧問たらしむる等、諸種提携の實を擧げた。在留三年。三十四年四月復職を命ぜられて東京に歸り士官学校附となつたが、再び一年の契約で在官の儘應聘して武昌に赴き、三十五年九月歸朝し、陸軍教授の奏任官に陞り、經理學校附兼勤を命ぜられた。