蔵書目録

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「ヂンバリストを聴く」 (1922)

2012年09月14日 | ヴァイオリニスト ハイフェッツ、小野アンナ他

 

 ヂンバリストを聴く

 ・敬愛なるツインバリスト氏へ グスターブ・クローン(訳文) 〔下は、原文〕

   

 ・大芸術家の一人       牛山充
 ・地味な態度に感服      萩原英一

 私は明治四十四年の春ベルリーンに到着いたしました。そして其翌々日と記憶して居りますが、ヒィルハルモニー管弦楽団を、前日亡くなりました有名なニイシュといふ人が指揮してチンバリストがチャイコフスキーのコンセルトを弾きました。その頃は未だチンバリストは、それ程有名ではなかったが、何しろ私が独逸へ着いた最初に聴いたので、非常によかったと思ひます。今度も本当の事は解りませんが、その時の印象が残ってゐて非常によい心持で聴きました。
 今度チンバリスト氏が来朝して、私が日本で初めて聴いたのは昨日が初めてであります。
 私はビッタのコンセルルトを目的に期待して聴きに行ったのです。それは多久寅氏が此処(音楽学校)で一度弾いたことがあるからで、チンバリストの聴いた時、一層の感興を添へて大変面白く聴くことが出来たのです。

 ・ヂンバリスト氏と私との対話 田村寛貞

 (帝劇演奏会初日の前夜、徳川頼貞君のところで。

 私『あなたのお名前の読み方は、チンバリストですか、ヂンバリストですか?独逸人はチンバリストといふのだけれど、本当の露語ではヂンバリストだとかきゝましたが、果してさうですか?』
 氏(けゞんな顏をして)『そんなことはありません。露語でも明かにチンバリストと読みます。たゞアクセントの位置がちがひ、独逸語では最初の上にアクセントがあるのですが、ロシア語では最後の綴の上にあるのださうです。それでヂンバリストと云ふのです。』
 私『世界中のヴイオリンの競奏曲 コンチェルト の中で何を一番好んでお弾きになりますか?』
 氏『ブラームス。』
 私『世界中のヴイオリン競奏曲 コンチェルト 中で何の曲が一番難しいですか?』
 氏『勿論ブラームスとベートーベンです……。君はテクニックに就いて聞くのですか、それとも精神的内容に就いて聞くのですか』
 私『それは両方に就いて伺ふのです』
 氏『テクニックに就いては、ブラームスが恐らく世界中で一番難しいでせう。それは御承知の通りブラームスは元来ピアノ弾で、ヴイオリンの事は余り詳しくないので、テクニックの上から見て誠に弾きにくい場所が多いのです。精神的内容から云へば、ブラームスとベートーベンは余ほど同じ難しさです。』
 私『ベートーベンのヴイオリンコンチェルトは旋律が甚だ単純で又あまり面白くありません。殊に第一楽章は少し退屈味の感じがしますが』
 氏『いやその単純な所がクラシックの特長で、その中に口で云へないベートーベンの雄大な感じを現すのが非常に難しいので、然もその単純であれ丈の大きさをもった曲は中々他では見ることが出来ないのです。』
 私『寧ろ第一楽章よりは、第三楽章の方が面白いと思ひますがどうでせう。』
 氏『そうは思はない。第一楽章は実に世界の最大傑作の一つであの驚く可き管絃楽と一緒に演奏する時は実に言語に絶した美しさが現はれてきます。』
 私『チャイコフスキーのコンチェルトは中々難しいそうですが、どうですか。』
 氏『何、君チャイコフスキイは前の二つと比較に成るものですか。それは段違ひに容易しいです。』
 私『それでは前の二つにつゞく難しいヴイオリンコンチェルトは誰のですか。』
 氏『マクス、ブルッフです。ブルッフの曲も中々難しいし、又なかゝ綺麗です。』
 私『パガニーニはどうですか。』
 氏『パガニーニは之も中々難しいですが、前の二つに比べると幾分か容易しいです。幾らかテクニックの弾き具合が違ふので、一寸骨も折れますけれど、全体から云へば前の二つより少しやさしいです。』
 私『ヴエータンやヰーニアフスキーなどは何んなものですか。』
 氏『それ等も中々難しいです。けれ共矢張前の二つよりも大分やさしいです。』
 私『それではサンサーンスはどんなものですか。』
 氏『それ等は比較的やさしい曲です。先づ競奏曲の中では中位のところでせう。』
 私『世界中のコンチェルトの中で一番どれが最も綺麗な曲ですか。』
 氏『それは非常に難しい質問です。』
 私『私が之れまで聞いた中ではメンデルスゾーンですが、そうではありませんか。』
 氏『メンデルスゾーンは中々綺麗です。恐らくいつまでも、あの美しさは失はずに残ってゆくでせう。メンデルスゾーンのコンチェルトの中では第三楽章が一番難しくもあり、又綺麗です。』
 私『それはテンポーが早いから難しいのですか。』
 氏『そればかりではありません。テクニックが中々弾きこなし難いのです。』
 私『一体世界中のヴイオリンの中で何が一番難しいですか。』
 氏『それも難しい質問です。』
 私『バッハのシャコンヌなど最も難しいではありますまいか。』
 氏『恐らくそうでせう。バッハのソナタは今日から見て、割に単純ではありますが、クラシック独特のテクニックが必要としますから、ヴイオリン弾にとって特別の技術と又理解力が必要で従ってあの曲などは、僅かに八章節から成って、すぐテーマが変化して、幾度となく現はれるので、実際聴く人の知らない苦心を要します。』
 私『サンリューバンのルチアのゼックステットは中々いゝ曲ですが、あれは世界で難しい曲ではありませんでせうか。』
 氏『何あなた、あう云ふ曲はみかけ程難しい曲ではありません。バッハのソナタなんかには比較になるものですか。然し中々綺麗ですな。』
 私『ヰーニアスキーの中ではどれが最も難曲ですか。』
 氏『勿論第一コンチェルトです。』
 私『その次は何ですか。』
 氏『第二コンチェルトです。』
 私『スーヴニールドウモスコーやポーゼンはどんなものでせうか。』
 氏『それはあなた、コンチェルトに比較出来るものですか。あゝ云ふ曲は実際のところあまり骨は折れません。』
 私『あなたがお聴きになりました世界のヴイオリン弾きの中で、どう云ふ人が最も偉い弾手ですか。』
 氏『古い人では私の先生のアウェ ルとイザイエです、新しいところで私の好きな人は、クライスラーとハイフェッツとエルマンです。』
 私『此の三人の中では誰が一番上ですか。』
 氏『それはとても云へません。皆それゞ独特の個性を持って居りますから。』
 私『この三人を一室に集めて、同じ難曲を三十か五十、順番に弾かせて見たら解るのでせう。』
 氏『それは駄目です。アメリカで一度そう云ふ事をやつて見て、大勢の批評家に意見を云はせて見ましたが、意見がまちゝで皆各々特色があるものですから、何れが一番偉いといふ事などはとても云へたものではありません。』
 私『世界中のコンダクターで誰が一番偉いでせうか。』
 氏『それは殆んど問題にはなりません。勿論ニッキッシュでした。』
 私『その次は誰ですか。』
 氏『少し段が離れて、カルホルニヤに居るストコフスキーです。』
 私『ワインガルトナーやメンゲルベルヒはどうですか。』
 氏『この人達も随分偉い人ですが、矢張ニッキッシュに競べると段ちがひに落ちます。』
 私『イザイェはシンシナティで弾者をやって居るやうですが、何うですか。』
 氏『いや何うも拙劣な弾者です。』
 私『イザイェはこの頃ソロは弾かないやうですがどうですか。』
 氏『五年以来あまり弾きません。』
 私『今も未だ昔のやうに上手でせうか。』
 氏『それは何とも云へませんが、最後に私が聴いた時の印象は実に非常な見事なものでした。此後に聴いて、あのいゝ印象を傷つけたく無いと思って居ります。』
 私『イザイェは作曲するやうですが、作曲者としては何ですか。』
 氏『いや、あまり大した者ではないやうです。』
 私『一体あなたはオーケストラの伴奏で弾くのと、ピアノの伴奏で弾くのと、何れがお好きですか。』
 氏『それは無論オーケストラの伴奏です。』
 私『然し、もしそのオーケストラが下手でしたらどうですか。』
 氏『いや、そいつは真つ平御免です。』
 私『一体世界のオーケストラで何処のが最も上手ですか。』
 氏『ヒィワデルヒャとウヰーンです。』
 私『大概何人位ですか。』
 氏『百人内外です。』
 私『それは都会のオーケストラですか、それ共学校のオーケストラですか。』
 氏『市でもってゐるオーケストラです。』
 私『私はボストンのが世界で有名のものと聞いて居りましたが、そうではありませんか。』
 氏『以前はそうでしたが、近頃はヒィワデルヒャのより少し落ちます。』
 私『ローマにも中々いゝオーケストラがあるそうですが、何うですか。』
 氏『中々いゝですが特に第一流といふ訳ではありません。』
 私『ドイツにはいゝオーケストラがあるでせう。』
 氏『いや、ドイツには何処へ行つても、どんな小さな街へ行ってもオーケストラがあります。そうして頗る上手なのもあれば、甚だ拙劣なものもあります。』
 私『何処のが一番良う御ざんすか。』
 氏『無論ベルーリンのフィルハルモニーです。』
 私『拙劣なのは何処のが拙劣ですか。』
 氏『小さな街のはいけません。』
 私『小さい街と喩へば何処です。』
 氏『ゴータなどです。』
 私『ロストックなどはどうですか。』
 氏『矢張いけませんな。』
 私『イギリスやフランスにはいゝオーケストラはありませんか。』
 氏『中々いゝのもありますが、世界第一流には入りにくいです。』
 私『世界中の音楽堂で何処のが一番いゝですか。』
 氏『世界には音楽堂が沢山ありますからそれも難しい質問です。然しボストンの音楽堂などは確に最もいゝ音楽堂の一つです。』
 私『それは市の音楽堂ですか。』
 氏『それは市とも関係がありますが、つまりオーケストラの団体に属してゐるのです。尚ソートレーキのモルモンの会場なども非常にいゝ会堂です。』
 私『あゝ、あのテバナクルの事ですか。確か二万人とかは入れて世界第一のパイプオルガンのある所でせう。』
 氏『そうです。然しそんなにはは入れませんよ。確か五六千人位でせう。』
 私『ドイツにはいゝ音楽堂があるでせうか、どうでせう。』
 氏『あります。中々いゝのが沢山あります。』
 私『喩へば何処のが一番良う御ざんすか。』
 氏『先づベルリーンのヒルハㇽモニーの楽堂などはそうでせう。ベートーベンザールも中々いゝです。』
 私『一体あなたは大勢の前で弾くのと、割合い少い聴手の前で弾くのと何れがお好きです。』
 氏『いや、あまり多い聴手よりも少い方が好きです。』
 私『大概何人位のところが一番好ですか。』
 氏『先づ千五百人位の聴手が一番いゝと思ひます。』
 私『失礼ですが、あなたの奥様は何処の国のお方ですか。』
 氏『ルーマニヤです。』
 私『グルックといふお名前がドイツ人のやうですが、何か先祖の関係が御ざいますか。』
 氏『何か関係はあるでせうが知りません。然しこのグルックといふ名前は舞台名ですよ。』
 私『それでは本名は何んとおっしゃいますか。』
 氏『さあ、何んと云ひましたか。』(とこゝに至って側に居た心理学者の上野文学士などゝ、自分の女房の名前を知らないのは随分のん気な話だなあと大笑ひしました。)
 私『奥様は歌をドイツでお習ひになったのですか。』
 氏『いゝえ、殆どあれはドイツへ行った事が無いのです。』
 私『あなたは何処にお住居ですか。』
 氏『ニューヨークです。両親がライプチッヒに居るものですから今度帰宅したら、ライプチッヒへ行くつもりです。』
 私『初めてドイツへお出になりました頃ヨハヒムのヴイオリンをお聴きになりましたか。』
 氏『いや私は不幸にしてヨハヒムを聴かずにしまひました。私がベルリーンへ到着したのは、ヨハヒムが死んでから三週間ばかり経ってからです。』
 私『あゝ、それでは千九百十年の夏ですね。』
 氏『そうです。十年の八月の末か九月でした。』
 私『あなたはサラサーテをお聴きになりましたか。』
 氏『何遍も聴きました。』
 私『サラサーテのヴイオリンは如何ですか。』
 氏『いや、どうも絶美です。そのテクニックに至っては、何人も匹敵する事は出来ません。只その精神上の表出に至っては別に世界第一といふ訳ではありません。』
 私『あなたの先生のアウエルは今はどこに居られますか。』
 氏『今はニューヨークです、五年前いロシアから逃げて来た時は殆ど洋服一枚でした。』
 私『ロシアの労農政府は芸術家を中々尊敬するそうですが、一体アウエルの財産を没収して仕舞ったのですか。』
 氏『そうです、悉く没収したのです。』
 私『今度は何処と何処で演奏なさるのですか。』
 氏『帝劇で五回、横浜で二回、名古屋で二回、京都で二回、大阪で二回、神戸で一回、岡山で一回、福岡で一回、順序はよく知りません。』
 私『それでは可なりお忙しくて日本を見物する日程はありませんね。』
 氏『どうも無いやうです。甚だ残念ですが、仕方がありません。然し京都の方へ行く時に富士山が見えるやうですね。』
 私『見えますが、それなら昼汽車でお出にならないといけません夜行では駄目ですよ。それであなたは日本の外で東洋で演奏なさいますか。』
 氏『上海と、香港と、マニラでやります。』
 私『南洋の方へはお出になりませんか。』
 氏『ジャバーと印度から招待されましたけれども、遠いから行かないで、直ぐアメリカへ帰る心算です。それに南洋は熱いからいけません。』
 私『帰りに又日本へ寄っておやりですか。』
 氏『福岡の帰りか、マニアの帰りか知りませんが、又今月の末か、来月の初めに帝劇で三日間やる心算です。』
 (斯んな事を話してゐる中テーブルの上にあった赤い綺麗なつゝじを見てチンバリスト氏は、)
 氏『綺麗な花ですな、ドイツ語では何んと云ひましたね。』
 私『アツァァーリエンです。ロシアにも御ざいますか。』
 氏『ロシアにあるか何うか私は覚えません。何しろ小さな時ロシアを出て、其後帰っても、恰度この花の時節ではなかったものですから。』
 私『エルマン氏の故郷はオデッサだそうですが、あなたのは何処ですか。』
 氏『ロシアの真中あたりより少し南の辺です。』
 (然し之だけで話してゐる中に特に感じたのは、チンバリスト氏は実に謙遜で、丁寧で、仮初にも出鱈目な返事などはせずに、よく熟考した上に極めて明瞭な答をするやうな、誠に立派な性格をもった人だと思ったことであります。ことに態度の礼儀正しいのには全くもって感服いたしました。徳川頼貞君も、その態度の立派なのを非常に誉めて居ました。
                                  (五月四日夜)

 上の文と写真は、『中央美術』 第八巻 第六号 大正十一年 〔一九二二年〕 六月一日発行 に掲載された。



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