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『支那革命史』 吉野作造・加藤繁共著 (1922.10)

2020年08月04日 | 辛亥革命 1 文献目録、革命史

        

 法學博士 吉野作造 

 慶大教授 加藤繁  共著

支那革命史

     内外出版株式會社發兌

    

 今僕は加藤繁君と共に共著の名義で支那革命史を公刊するに際し、一言其由来を述べて序文に代へようと思ふ。わざゝ公刊の由来を述ぶるのは、世間普通に見る所謂共著の多くは著者の孰れか一方が名ばかりであるのを常とすると云ふが、本書は決してさうではないと云ふ事を明にしたいのと、又本書の出來るまでの經緯を明らさまに述ふることは、本書の讀者に取つて必しも無用でないと信じたからである。

 僕は初めから正直に白狀して置く、本書は徹頭徹尾加藤繁君の筆に成つたもので、僕は一言一句と雖も自ら筆を取つて加除した所はないと云ふ事を。此點に於て本書は全然加藤繁君のものである。併し内容に就ては辭の正しき意味に於て全く僕等兩名の共同のものなのである。

 僕は大正三四年の頃から支那革命史の編著に志し、廣く材料を集めたり、又多くの内外の關係諸名士に就て疑を質したりなどしたのであつた。雜誌などに斷片的の説述を試みたことは一再に止らないが、纏つたものはとしては「支那革命小史」を出して大體の輪郭を叙したことがある。東方時論には曾て稍詳細なる革命史を書き初めたが中途にしてやめた。固より深き自信はなきも、かくして僕は支那革命史の研究に於て全くの素人ではない積りなのである。

 然るに段々研究を進めて行くうち、もとゝ支那時文の研究に特別の素養なき僕は、彼地文献の重要資料を渉獵するに可なりの不便を感ずるに至つた。外にも用事が多いので、獨力で此難關を突破するには餘りに多くの時間を要しさうなので、遂に誰か適當な協力者を得たいものだと考へ、之を先輩の市村瓚次郎博士に相談した。その紹介で圖らず此事業を共にするに至つたのが加藤繁君なのである。

 加藤繁君は支那史學に造詣の深き篤學の士である。僕の仕事に協力するが如きは謂はゞ牛刀を以て鶏を割くの類ではるが、強て懇請せるに對して快く承諾を與へられた。而して始めはたゞ支那文献を和解して適當の資料を僕に供給する丈の約束であつたのだが、やつて居るうちに加藤君自身が段々革命史研究に興味を有たれる樣になつた。加之革命史研究の同君の方針が亦大に僕の立場と一致する所あるを發見したので、僕は本來支那學の專門家たる同君の方が、僕自身よりも遙に立派なものが書けるだらうと考ふるに至つた。そこで相談し直して一切の材料を同君に提供し、改めて全體の執筆を托する事にしたのである。尤も内容について兩人の間に十分の協議を遂げた事は言ふまでもない。

 敢て他人の功を自分に奪ふの考は毛頭ないが、本書の内容に就ては加藤繁君に於て全部の責任を負ふと共に、僕自身も亦全部の責任を負ふことを避けない。只本書が起稿に着手してより前後三年の星霜を經て、ともかくも斯く纏つた形に於て世に出づる事になつたのは、加藤繁君の多大の努力の結果に外ならない。協力者の一人として僕の深く感謝する所である。

    大正十一年九月

             吉野作造識

   凡例

 緒言

 革命前紀

 革命本紀

  第十五章 武昌の變 〔下はその一部〕 

  偖て武昌を占領した黨人等は、味方の軍隊を統一する爲衆望のある著名な人物を首領とする必要を認めた。さうして混政協統黎元洪に白羽の矢を立てた。黎は決して革命主義者ではない。數年前孫武等は彼を味方に引入れようと運動したが、彼は聽かなかつた。さうして今度の事變の勃発する前には、總督瑞澂の命を奉じて忠實に警戒に從事したのである。併し第八鎭統制張彪の不人望なのに引換へ、寛大温厚なる彼の性格は自ら衆心歸向の的となつてゐた。黨人等が彼を舁上げようと考へたのは此れが爲であつた。事變の夜、深更に及んで、蔡濟民・張振武等は一團の兵士を率ゐて彼の營所に至り、劍と銃とピストルとの林立せる間に於て、民軍の首領たらんことを強要し、遂に其の承諾を得た。併し初は其眞意を疑ひ、陸軍中學生數名をして監視せしめたが、數日にして黎も愈決心を固め、熱心に事を視るに至つたので、黨人も始めて警戒を解いたのであつた。當時の狀況並に黎の心事は、彼が海軍提督薩鎭冰に送つて革軍に與せんことを勸めた書の中に、詳に告白されあるから次に掲げよう。

 洪當武昌變起之時。所部各軍。均已出防。空營獨守。束手無策。黨軍驅逐瑞督出城後。即率隊來洪營。合圍捜索。洪換便衣匿室後。當被索執。責以大義。其時槍 環列。萬一不從。立即身首異處。洪只得權爲應允。吾師素知洪最謹厚。何敢倉猝出此。雖任事。數日未敢輕動。蓋不知究竟同志者若何。團體若何。事機若何。如輕易著手。恐至不可収拾。不能爲漢族雪耻。轉增危害。今己視師八日。萬衆一心。同仇敵愾。昔武王云。紂王臣億萬。惟億萬心。予有臣三千。惟一心。今則一心之人。何止三萬。 中略 卽就昨日陸戰而論。兵丁各自爲戰。雖無指揮。亦各奮力突進。漢族同胞。徒手助戰。毀損鐵軌者。指不勝屈。甚有婦孺餓送麪包茶水入陣。此情此景。言之令人奮武。誰無肝膽。誰無熱誠。誰非黄帝子孫。豈肯甘作滿族奴隷。而殘害同胞耶。洪有鑒於此。識事機之大有可爲。乃誓師宣言。矢志恢復漢土。云云(革命文牘類編第一冊)

 斯かる事情に依つて黎元洪は卾軍都督に舉げられた。さうして軍政府は湖北諮議局に開かれ、司令・軍務・参謀・政事の四部が組織された。軍務部長には孫武が任せられ、政事部長には湖北諮議局議長湯化龍が任ぜられた。湯化龍は本來立憲主義者で、革命の同志ではない。彼も黨人の勧誘に應じなかつた一人であるが、今や政事部長の任に就くことを諾つた。

  第三十七章 臨時大總統の選擧 〔下はその一部〕

 武昌の爆發に對して、孫は直接の關係を持たなかつた。併し、武昌に馳け附け、又は上海廣東其他の各地方に起つて革命の遂行に努力した面々には、彼の部下彼の同志が數多く見出される。彼等は皆孫が速に歸つて革命の中心たらんことを希つたことは申すまでもない。局面の發展するにつれ、多々益辦するものは資金であるが、併し此の資金の缼乏には革命軍も淸廷も倶に困んだ。孫が帰國の途に上るや、大金を齎らして還るといふ噂が立ち、孫派も非孫派も、彼に依つて此の缼乏の救はれんことを待ちわびた。併し孫は幾何の資金も持歸らなかつた。孫文學説 卷一、一〇七頁一〇八頁 に彼は自ら次の如く述べて居る。

 當予未到上海之前。中外各報。皆多傳布謂。予帶有巨欵回國。以助革命軍。予甫抵上海之日、同志之所望我者以此。中外各報館訪員之所問者亦以此。予答之曰。予不名一錢也。所帶囘者革命之精神耳。革命之目的不達。無和議之可言也。

 孫が大金を持歸らなかつたことは同志等をして聊失望せしめたに相違あるまいが、併し革命黨は、彼の帰國に依つて、行詰れる時局を開展せしむべき絶好の機會を見出した。黄興を副元帥として統一政府の中心たらしめんとする企は、黄の固辭によつて破れ了つた。さりとて黎元洪をして武昌を去つて南京に來らしめることは、武昌の事情が許さない。進退谷まつた各省代表等は、偶歸來つた革命の先覺者を捕らへて大總統とし、由つて以て人心を糾合し事權を統一することの、自然であり妥當であることを覺つた。代表等は嚮に袁世凱を誘はんが爲、故さらに臨時大総統選擧を延期したのであるが、其後の形勢、特に講和會議開催以來の袁の態度を觀れば、彼の眞意は測り難く、彼の爲に必しも大總統の地位を空虚ならしめ置くべきでないから、遂に當初の計を棄てゝ孫を迎へようと思ひ定めたのである。

  結論 〔下は、その最初の部分〕

 光緒の中頃から起つて遂に淸朝を覆した革命運動の經過は大別して三期とすることが出來る。孫文が興中會を設立した光緒十八年(明治二十五年)から拳匪事變の起つた光緒二十六年(明治三十三年)に至る約九年間は其の第一期であり、光緒二十六年から中國同盟會の組織された光緒三十一年(明治三十八年)に至る約六年間は第二期であり、光緒三十一年から宣統三年(明治四十四年)に至る約六年間は第三期である。前後二十年間にして革命運動は成功し、淸朝は沒落し了はつたのである。

 〔参考〕

 なお、所蔵本は、大正十一年十月五日発行、同年十一月五日再版発行、昭和四年十月一日新版発行の三冊である。

 このうち、昭和四年新版は、背表紙が「支那革命史 加藤繁著」となっており、「序」や「凡例」はない。



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