蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

「京師法政學堂の槪況(上)」 育英生 (1910.3)

2020年10月04日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

 

 京師法政學堂の槪況(上)
          育英生

  第一 沿革槪要

 淸國が始めて新主義の教育制度を採用するの気運に向ひしは實に光緒二十六年(明治三十三年)義和團事變の以後にありとす、其の以前にありても稀に新主義に基づける學堂の設けなきに非ずと雖其の數極めて少く勢力も亦其振はず一般の學生は猶舊來の方法に依り經史の訓詁釋義を學び專ら科擧に應ずるの準備を爲すを以て例とせり、之を首都の北京に徴するも新主義の學堂としては唯一の同文館ありたるのみ、該館は東安門内馬神廟現大學堂所在地に設け米人マルチン氏を聘して其總教習と爲し我が日本人も諸外國人と共に其の教授に從事せり、然れども學生の此の館に學ぶ者未だ多からず其の教科も主として外國語を課するに止れり、首都の學界すら猶斯の如し其の他の地方は推して知るべきのみ、之を現行の教育制度に於て學堂を教育の中樞とし普く各種の學堂を設けて各般の學生を教育する者に比すれば實に霄壤の差ありとす、殊に法政科の如きは從來未だ何れの學堂に於ても之を課する者あらず其の之を一科の學問と認めて之が爲に特に専門の學堂を設立せしは仕學館を以て其の嚆矢とす、
 抑も淸國がかヽる状態より一躍して新に統一せる教育制度を定むるに至れるは実に義和團事變の打撃其の因を爲せる者なり、此の事變に因りて淸國上下一般に警醒を與へられ自強の策を講ずるは先づ學堂を興して新なる教育法を施し國民一般の智識を進むるの最も急務なる事を自覺するに至れるなり、是を以て事變の翌年即光緒二十七年の十二月(明治三十五年一月)淸廷は張百熙氏を管學大臣に任じ並に大學堂務事を管理せしめ新教育制度に關する一切の事宜を計畫せしむ、同氏は乃ち命を奉じ直に諸外國學制の調査に從事し全國學制の系統を定むるは宜しく範を日本に採るべきこと及び京師に大學豫科並に仕學館師範館を創設すべきことを奏請せり、蓋し當時俄に大學正科を開設せんと欲するも時期尚早くして新教育の素養ある學生を得ること能はざるが爲に先づ其の豫科を設けて徐に大學正科開學の基礎を作り一面には時勢の急需に應ずるが爲に官吏及び教員を速成的に養成するの目的を以て仕學館及び師範館を設くるの擧に出でたる者なり、此の奏議は淸廷の嘉納する所となり尋いで本奏議に從ひ全國一般の學堂章程を編成せり、而して其の大學堂章程中に大學豫科及び仕學館師範館を並立するの變体的學制を設けしは全く上述の目的を達するが爲に一時の權宜に出でたる者なり、此の時編成せる諸章程は光緒二十八年七月(明治三十五年八月)を以て發布せり、所謂欽定學堂章程と稱する者即是にて實に淸國新教育の基礎を築ける者なり、
 是に於て淸國政府は京師大學堂を東安門内馬神廟舊同文館跡に置き同章程の規定に從ひ先づ仕學館及び師範館の兩館を開設せんとし我が外務省に交渉して教習の人選を委囑す、外務省は仕學館教習として法學博士嚴谷孫藏法學士杉榮三郎の兩氏を推選し師範館教習として文学博士服部宇之吉理學士太田達人の兩氏を推選せり、此等の四氏は聘に應じ同年九月悉く任に此の地に就くことヽなれり、
 前記四氏の着任當時兩館は未だ之を開設せず開設の準備に關しても多く施設する所なかりき、由りて四氏は直に開設の準備に助力を與へ親しく入學試驗施行の任に當り漸く光緒二十八年十一月中旬(明治三十五年十二月)を以て開學するを得たり、當時仕學館學生は現在官吏若くは候補官吏中より試驗の上入學を許しゝ者にして其の數七十名あり、後聽講生制度を設け約三十名の聽講生を得るに至り大約百名の學生に法政の學問を教授せり、法政專門の學科目は略日本帝國大學法科大學の科目に同じく修業年限は三箇年にして教授は主として日本教習之に當れるも通譯を用ひて間接の教授を施せるが爲に其の進度及び理解に於て遺憾の點あるを免れざりしが學生は卒業の後夫々相當の地位に用ひられたり、前日本憲政考察大臣現在理藩部左侍郎達壽氏の如きは本館卒業生中最も優秀なる者なり、其の他の者も各部の行政官及び各地方の法政學堂監督或は教習等に就任せる者多し、(仕學館が卒業生を出しゝは進士館に合併せられたる後にあり)、    
  大學豫科は翌年即光緒二十九年の春に至り漸く開設せられしが外國教習は總て西洋人を以て之に充て日本人は一切採用せられざりき、是蓋管學大臣が速成的の教育には日本人を聘用し大學教育には主として西洋人を用ふるの方針を執れるが故なり、此の方針は今日に至るまで依然として變更せざるが如し
  師範館は光緒三十四年(明治四十一年)十二月に至り閉鎖し同館に從事せし服部博士を始めとし八名の日本教習は此の時を以て歸朝せり、
 光緒二十九年五月(明治三十六年六月)時の湖廣總督張之洞氏入京す、氏は夙に欽定學堂章程に關して意見を懐けるが故に淸廷は乃ち管學大臣張百熙及び榮慶のニ氏と會同して學堂章程を改訂しせむ同年十一月改訂學堂章程成り上は大學堂より下は蒙養院に至るまで全國各種學堂の詳細なる規程を設く、之を上奏して裁可を得たり、奏定學堂章程と稱する者即ち是なり、本章程は欽定學堂章程に比し改訂變更せし點尠からずと雖其の根本の大主義に至ては毫も動搖することなく依然日本の教育制度に模做せり、是即現行の學堂章程なり、本章程中特に速成の法政教育に關して著しく變更したる點は進士館の新設是なり、之より先張之洞氏張百熙氏等は夙に科擧廢止の必要を感じ之に代ふるに學堂教育を以てし依りて新教育を鼓舞奬勵せんことを上奏せしが議朝廷の納るゝ所とならざりき、故に氏等は學堂章程の改訂を命せらるゝや新に進士館の規程を設け輓近の科擧出身者は之を進士館に入れ新智識を捕足し以て國家有用の材を養成せんことを計れり、此の目的を達するが爲同館の規程中に光緒二十九年(明治三十六年)以降の進士は齡三十五歳以上にして精力衰耗し既に學習に堪へざる者を除くの外總て同館に入り三年間法政教育を受くべきことを明示せり、淸國政府は本章程に基づき工を西城太僕寺街に起し新に學堂を建設し之を教習進士館と名づく、即進士の稱號を有する者を教習するの謂なり、かくて同館は光緒三十年四月(明治三十七年五月)開學す、而して從來の仕學館は之を大學堂内より分離して進士館に附屬せしむ、是に於て從來仕學館に教鞭を執りし日本教習は轉じて進士館の教習となれり、此の時文學士矢野仁一氏新に聘用せられたり、
 進士館開學當時の學生は癸卯科即光緒二十九年(明治三十六年)登第の進士にして當時の員數一百五十名を算す、其の後光緒三十一年(明治三十八年)正月に至り甲辰恩科即ち光緒三十年(明治三十七年)登第の進士一百五十八名を入學せしめ三十二年(明治三十九年)九月新に講習科を設け吏部の嘱托學生三百四十五名を収容し合計六百五十餘名の教育に從事せり、(仕學館の學生は此の外とす)、
 光緒三十一年八月四日(明治三十八年九月二日)爾後全く科擧の制度を廢止するの上諭下る、是は淸廷が時勢の趨向に顧み偏に新學を重ずるの結果此の大英斷に出でたるものにて歷代の積習を一朝にして改め得たるは實に痛快の極と云ふ可し、此の後復た科擧出身の進士を出すこと無きを以て當時在館の學生畢業の後は更に進士館を存するの必要を認めず進士館の事業は茲に大段落を告ぐるに至れり、進士館の法政に關する學科目及び教授の方法は仕學館に同じ、學生は卒業後官費を以て日本に留學若くは遊歷を命ぜられたり、本館の學生は日本より歸國後日尚淺きを以て現在未だ顯要の地位を得たる者あらずと雖本來進士出身にして且新に法政の學科を修得せる者なれば將來必頭角を顯はすに至るべし、 
 進士館の事業終りを告げて京師法政學堂の新設を見るに至る前後の事情は請ふ之を次號に述べん

 上の文は、明治四十三年三月一日発行(非売品)の雑誌 『燕塵』 第三年第三號 (第二十七號) に掲載されたものである。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。