戊辰戦争は、時代に翻弄された戦いだった。
しかし、その後の明治維新と言われる政治の流れを見るにつけ、江戸幕府の崩壊後も江戸から脱走して尚も新政府軍(官軍)と戦おうとする武士たちの心情には何故か惹かれるものがある。
封建体制から抜け出して近代化へ向かう…、と言えば明るい兆しのようにも聞こえるが、ある意味では260年間にわたる平和な時代から外国との戦争も辞さない国家体制作りへ向かうものでもあった。
江戸期から明治期に至る過程の歴史的考察にも興味はあるが、今は、鳥羽伏見の戦いに始まり翌年の箱館戦争で終わる戊辰戦争の一方の担い手だった「脱走派」に思いを寄せてみたい。
私が何故そんな気持ちになったかは、実に単純な理由によるものだ。
それは、地元の歴史あるメインストリートがかつての面影をほとんど残していないことに端を発する。
この東西に真っ直ぐ延びる1km程の通り(本町通り)が作られたのは、家康が東金方面へ鷹狩りに行くためだったという説もあるから、 まさに江戸時代の時の流れと軌を一にしている。
江戸の末期には22軒の旅籠屋が並ぶ宿場町だったというから、その賑わい振りも想像できる。
ところが、戊辰戦争によって宿場の大半が焼失してしまったらしい。
船橋大神宮に陣を張る脱走派、市川方面から駆けつけた脱走派、共に官軍と戦うも兵器・兵力の差によって完敗を喫してしまうのだった。
火を放ったのは官軍で、脱走派が民家等に潜むのを防ぐためのまさに炙り出し作戦とも言える。
何代にもわたって続いてきたであろう旅籠屋や商店が、強制的に火を付けられ失ってしまったのだ。
焼失しなければ当時の建物がそのまま残るとは限らないが、第二次世界大戦の時にも空襲で焼かれることはなかった商店街だというから、仮に戊辰戦争がなかったなら、当時の美しかったであろう宿場の街並みはその後もしばらくは続いたに違いない。
官軍は文化遺産を焼失=喪失させたのだ!
その後の変遷により、今、この本町通りに残る歴史的建造物は明治の初め頃に建てられた2軒のみだが、目を閉じると 、往時の面影が浮かんでくる。
この戊辰戦争では、双方に多くの死者を出した。
無残にも散乱した遺体を哀れに感じた地元の人々が、彼らを丁重に葬ったと思われる名残の墓石があるらしい。
私は、図書館で得た資料を基に何ヶ所かまわった。
容易に見つかるものではなかったが、ついに1基の墓石を発見した。
(つづく)
<この記事は筆者が『江戸川教育文化センター』に投稿した文を基に書き起こしています。>
ーS.S-