被害妄想と被害者意識の困った脳
困ったことに、わたしの脳もいわゆる”この脳”に当てはまってしまう
(あんなそれちょいと被害妄想激しくないかい?)
と、真剣な顔で相談を持ち掛けてきた相手に、心の中で呟いてしまいたくなる正常人もいることでしょう
相談を持ち掛けられた多くの人は、その困ったさん(相談者)の”それ”は、《その人の性格だ!》と思うものです
けれど、そもそも性格って何なんなでしょう?
性格すらも、"脳の構造”が関係しているとしたら??
今日は被害妄想と被害者意識の困った脳というテーマです
この困った脳の持ち主は、ふつうの人が右から左へ受け流すような些細な出来事であったとしても、決して受け流すことが出来ません
むしろ、ハート(心臓)にチクチクと刺さり、いつまでも抜けないトゲのようにして居座り続けるという何とも困ったことになります
わたしの例をちょっと挙げてみます
小学生のころ、学校のクラス対抗の選抜リレーに選ばれたわたしは、1番であるスタートダッシュを任されました
その練習をしていた時のことです
わたしは3番のラインからのスタートでした
リレーのスターターというものは、はじめの数メートルだけはそのラインを守って走らねばなりませんが、そのラインを過ぎればあとは運動場のトラックさえはみ出なければ自由に走ってOKです
わたしは2番手にバトンを手渡すまでの50Mの区間
3番のラインから少しもはみ出ることなく走り続けてしまいました
走り終わると、先生がわたしにそそくさと駆け寄り、耳元でリレーのスタートの走り方を教えてくれ、
わたしの今の走り方は、どうやら”まずかった”ということをわたしはその時知ることになりました
ふつうであれば、”そうなのか”で終わるところ、わたしは場合はそうないかない
今でもその時の記憶ははっきり覚えているし、もうリレーなんて出たくない、選抜からおろしてくれと、心から思うほど
嫌~な気持ちになるのです
その先生のことが”嫌いになる”とまではいかないにしても、今でも決してその出来事を忘れないほどの執着っぷりです
もちろんこれだけでなく、こんなことが山山山ほどあります
嫌な思い、悲しい思いをした経験のほとんどは、今でも1ミリたりとも忘れることはなく、ネチネチと思い続けるのです
(この人はわたしにこんなことをした)
(あの人はわたしにあんなことを言った)
表では普通にしていても、心の奥ではずっとそのことをネチネチと忘れることはない
面白いことに、その出来事の大半は、ふつうの人であればなんともない、些細な出来事であるということを知ったのは、
何十年とわたしが生きた長い年月のなかのつい最近のこと…
わたしは、みんなも同じように出来事の一つ一つに対して大きく受け止め、大きく解釈しているのだとずっと思っていました
だからわたしは何か人にものを言うとき、”相手が不快になる”、”嫌な気分にさせてしまう”というのを前提に接してしまいます(←これが相手から嫌われないようにしたり、過剰に顔色や表情を読む癖にも繋がってしまいます)
みんなも自分と一緒…そう思っていたのだかれど
これはとんでもない間違いであった
みんなはなんでも右から左へ受け流せる…
そもそも、どうでもいい、なんてことないことをずっとネチネチと思い続けてしまうというのは、
ただただわたしの強い被害妄想と被害者意識の現れであったのです
困ったことに、本人にとってはそれがどうでもいいとはならない…
自分のそういった被害妄想被害者意識の傾向にすら気づけません
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