すると、その隣にいた棒切れのような細長い顔の男が叫んだ。
「率直にお尋ねする。曹操とは?」
「漢室の賊臣なり」
打てば響くと言った孔明の答えに、細長い顔の男は、小ばかにしたように鼻を鳴らした。
「よくもまあ、いい切れるものよ。漢の命運は尽きているのは童子でもわかること。
一方の曹丞相は天下の三分の二をすでに治め、良民もかれに付き従っておる。
そんな曹丞相を賊呼ばわりするということは、名だたる帝王たちや武王も秦王も高祖も、みな賊となってしまおうぞ」
おどけてみせる細長い顔の男の態度に、それまで穏やかな笑みを浮かべていた孔明は、急に顔をこわばらせると、これまでより声高に言った。
「その無駄口を叩く口は閉ざされていたほうがよろしいでしょう。
貴殿の言は父母も君主もない人間のことば。
そもそも、曹操は漢室の碌《ろく》を食みながら、邪悪な本質をあらわにし、天下の簒奪を試みている大悪人。
それをほめそやすとは、貴殿も主君におなじたくらみを持っておられるのか?」
「そ、そんなことは」
打って変わって弱弱しく反駁《はんばく》しようとする男を、張昭が、「もう黙っておれ!」と叱った。
男はしゅんとして、もうしゃべらなかった。
「しかし曹操という男は、ひとかどの男だと認めざるを得ないのでは?」
と言い出したのは、地味な顔立ちだが、身にまとう衣は上質そうな男だった。
「陸績《りくせき》、あざなを公紀《こうき》と申す。臥龍先生にぜひ質問したい」
「なんなりと」
「曹操は相国《しょうこく》曹参の末裔であることにまちがいはない。
しかし、貴殿の仕える劉豫洲《りゅうよしゅう》(劉備)はもとはむしろ売りだと聞いた。
この両者を比較するのは、そもそもおかしいのではないか?」
むしろ売りと聞いて、周りの男たちが馬鹿にしたように忍び笑いを漏らす。
孔明のとなりで、それまで黙って論戦のゆくえを見ていた趙雲が、これにはいきりたち、身を乗り出したのを、孔明は手ぶりで、これをとどめた。
小さく、「任せろ」と合図を送る。
趙雲は、むすっと唇を引き結んで、また一歩、うしろに退いた。
孔明は小さくうなずくと、陸績に向き直って、つづけた。
「陸公紀どの、貴殿は周の文王の故事をごぞんじないのか。
かれは天下の三分の二を領しながらも、商(殷《いん》)に仕えつづけたではありませぬか。
紂王《ちゅうおう》の暴虐があってこそ、はじめて文王の子の武王が立った、そのことをお忘れでは?
しかし現代のどこに紂王がいるのです。
董卓が紂王というのならまだしも、かれはとっくの昔に黄泉の人となっている。
では、今上帝《きんじょうてい》が紂王だとでも?」
「そんな畏れ多いことは」
「そうでしょう。そうではない。
なのに曹操は漢王室になんら寄与せず、どころか武王のまねごとをしようとしている。
一方でわが君・劉備は、零落した家系ながらけなげに漢王室に尽くし、いまなおその復興を願って行動を起こし続けておられる。
それを比べて、どちらが優れているかは火を見るより明らかではありませぬか。
そも人物の全体をよく観察もせず、出自だけを見て蔑むとは、その心根の卑しさに唖然とするほかありませぬな」
さすがにこれには陸績も返答に困ったようで、身を縮こまらせてしまった。
もはや、その場にいた誰もが口を開かず、あれほど騒がしかった場は、しんと鎮まりかえってしまった。
孔明は、だめ押しをするように、家臣たちそれぞれの目を見た。
だが、目が合うと、かれらは怖いものと目が合ったかのように、ふいっと目を逸らしてしまう。
場を支配した証だ。
魯粛は自分が勝ったように微笑んでおり、そのすぐそばにいる張昭は、まだなにかを言おうとことばを探しているようだったが、けっきょく、ことばは見つからなかったようで、赤い顔のまま口を閉ざしてしまった。
「孫将軍が、劉豫洲の使者どのと面会したいと申されておる」
その声に振り向くと、髪に白い物の混じった、いかにも頑固そうな老将が、いかめしい顔をしてこちらを見ていた。
「先導する。付いてこられよ」
名乗りもせず、老将は孔明らに背中を向けて、奥へと歩き出す。
魯粛はあわててそのあとを追いながら、孔明に耳打ちをした。
「かれは黄公覆《こうこうふ》(黄蓋《こうがい》)どのだ。
いよいよだな、孔明どの。かならず同盟を成功させてくれ」
「もちろんです。われらのために」
孔明は短く答えると、黄蓋の鍛え抜かれているとわかる、その無駄な肉のない背中を追った。
つづく
「率直にお尋ねする。曹操とは?」
「漢室の賊臣なり」
打てば響くと言った孔明の答えに、細長い顔の男は、小ばかにしたように鼻を鳴らした。
「よくもまあ、いい切れるものよ。漢の命運は尽きているのは童子でもわかること。
一方の曹丞相は天下の三分の二をすでに治め、良民もかれに付き従っておる。
そんな曹丞相を賊呼ばわりするということは、名だたる帝王たちや武王も秦王も高祖も、みな賊となってしまおうぞ」
おどけてみせる細長い顔の男の態度に、それまで穏やかな笑みを浮かべていた孔明は、急に顔をこわばらせると、これまでより声高に言った。
「その無駄口を叩く口は閉ざされていたほうがよろしいでしょう。
貴殿の言は父母も君主もない人間のことば。
そもそも、曹操は漢室の碌《ろく》を食みながら、邪悪な本質をあらわにし、天下の簒奪を試みている大悪人。
それをほめそやすとは、貴殿も主君におなじたくらみを持っておられるのか?」
「そ、そんなことは」
打って変わって弱弱しく反駁《はんばく》しようとする男を、張昭が、「もう黙っておれ!」と叱った。
男はしゅんとして、もうしゃべらなかった。
「しかし曹操という男は、ひとかどの男だと認めざるを得ないのでは?」
と言い出したのは、地味な顔立ちだが、身にまとう衣は上質そうな男だった。
「陸績《りくせき》、あざなを公紀《こうき》と申す。臥龍先生にぜひ質問したい」
「なんなりと」
「曹操は相国《しょうこく》曹参の末裔であることにまちがいはない。
しかし、貴殿の仕える劉豫洲《りゅうよしゅう》(劉備)はもとはむしろ売りだと聞いた。
この両者を比較するのは、そもそもおかしいのではないか?」
むしろ売りと聞いて、周りの男たちが馬鹿にしたように忍び笑いを漏らす。
孔明のとなりで、それまで黙って論戦のゆくえを見ていた趙雲が、これにはいきりたち、身を乗り出したのを、孔明は手ぶりで、これをとどめた。
小さく、「任せろ」と合図を送る。
趙雲は、むすっと唇を引き結んで、また一歩、うしろに退いた。
孔明は小さくうなずくと、陸績に向き直って、つづけた。
「陸公紀どの、貴殿は周の文王の故事をごぞんじないのか。
かれは天下の三分の二を領しながらも、商(殷《いん》)に仕えつづけたではありませぬか。
紂王《ちゅうおう》の暴虐があってこそ、はじめて文王の子の武王が立った、そのことをお忘れでは?
しかし現代のどこに紂王がいるのです。
董卓が紂王というのならまだしも、かれはとっくの昔に黄泉の人となっている。
では、今上帝《きんじょうてい》が紂王だとでも?」
「そんな畏れ多いことは」
「そうでしょう。そうではない。
なのに曹操は漢王室になんら寄与せず、どころか武王のまねごとをしようとしている。
一方でわが君・劉備は、零落した家系ながらけなげに漢王室に尽くし、いまなおその復興を願って行動を起こし続けておられる。
それを比べて、どちらが優れているかは火を見るより明らかではありませぬか。
そも人物の全体をよく観察もせず、出自だけを見て蔑むとは、その心根の卑しさに唖然とするほかありませぬな」
さすがにこれには陸績も返答に困ったようで、身を縮こまらせてしまった。
もはや、その場にいた誰もが口を開かず、あれほど騒がしかった場は、しんと鎮まりかえってしまった。
孔明は、だめ押しをするように、家臣たちそれぞれの目を見た。
だが、目が合うと、かれらは怖いものと目が合ったかのように、ふいっと目を逸らしてしまう。
場を支配した証だ。
魯粛は自分が勝ったように微笑んでおり、そのすぐそばにいる張昭は、まだなにかを言おうとことばを探しているようだったが、けっきょく、ことばは見つからなかったようで、赤い顔のまま口を閉ざしてしまった。
「孫将軍が、劉豫洲の使者どのと面会したいと申されておる」
その声に振り向くと、髪に白い物の混じった、いかにも頑固そうな老将が、いかめしい顔をしてこちらを見ていた。
「先導する。付いてこられよ」
名乗りもせず、老将は孔明らに背中を向けて、奥へと歩き出す。
魯粛はあわててそのあとを追いながら、孔明に耳打ちをした。
「かれは黄公覆《こうこうふ》(黄蓋《こうがい》)どのだ。
いよいよだな、孔明どの。かならず同盟を成功させてくれ」
「もちろんです。われらのために」
孔明は短く答えると、黄蓋の鍛え抜かれているとわかる、その無駄な肉のない背中を追った。
つづく
※ 論戦を制した孔明、お次はいよいよ孫権との対面です。
このあたり、前作の「赤壁に龍は踊る」というよりも、「飛鏡、天に輝く」の雰囲気を活かしつつの書き直しとなっております。
明日もどうぞお楽しみにー(*^▽^*)