墓の前にいたのは、小柄な女だった。
背中をちいさく丸めて前のめりに屈《かが》みこみ、なにやら熱心に手を動かしている。
ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ…
規則正しい音がした。
どうやら、地面を掘り返しているようだ。
ぞくっと背筋がふるえた。
墓の前で地面を掘り返している……妻の縁故《えんこ》の者が、櫛《くし》を取り返しに来た?
いや、おかしい。
妻の櫛は、たしかに高級品ではあったが、しかし奪い合いになるほどの価値はなかった。
そもそも、なんの便《たよ》りもなく妻の墓にやってくる親族に心当たりはない。
そこまで考えて、夏侯蘭《かこうらん》は気づいた。
墓の下には、櫛の他に、なにがある。
塩漬けにした『狗屠《くと》』の首だ。
この女、『狗屠』の首をとり返しに来たのか。
女の顔は見えない。
ただ、腰まで届く長い髪をしており、それが屈んでいるせいで、地面についているのが見えた。
よく見れば、装束も立派で、黄金の糸で縁取《ふちど》りされている、翡翠色のころもを身に着けていた。
それが、一心不乱に指で地面を掘りつづけているのだ。
身分のありそうな女だが、尋常ではなかった。
夏侯蘭は気づかれないよう、息を殺しながら、そっと腰に手をあてていた。
そして、おのれのうかつさを呪った。
ここ数か月、あまりに平和に過ごしていたので、近所に出かけるときは、剣を佩《お》びないようになっていたのだ。
どきん、どきんと心臓が早鐘打ち始めた。
落ち着け、相手は小柄な女ひとり。
襲い掛かってきても、撃退できる。
最低限、追っ払うことができればよいのだ。
女の白く細い手が、土にまみれている。
こんなに土と格闘していては、爪だって痛んでくるだろうに、それでもかまわず、女は熱心に土を掘り返そうとしていた。
背後に夏侯蘭がいるのにも気づかない様子だ。
だれか応援を頼むべきか。
それともこのまま引き返して、武器を取って帰ってくるか。
迷って、集落のほうに目をやった、そのときだった。
一心不乱に土を掻《か》き出していた女が、ゆっくりと夏侯蘭のほうを振り向いた。
乱れてこそいたが、手入れのよいつややかな髪である。
それが顔の全面に覆いかぶさるようになっているので、まるで黒い薄衣《うすごろも》をかぶっているように見えた。
邪魔だろうに、前にかぶさった長い髪をはらうこともせず、女は髪と髪のすきまから、夏侯蘭をじろりとにらむ。
ぎょっとしたことに、女の両目からは、血の涙がながれていた。
夏侯蘭が仰天《ぎょうてん》して、一歩、退《しりぞ》くと、女が唸るように言った。
「ぼうやを殺したのは、おまえか」
妖魔。
そんなことばが夏侯蘭の脳裏をよぎった。
ぼうや?
こいつ、やはり『狗屠』の関係者か。
なぜ『狗屠』を、ぼうやなどと呼ぶ?
荊州の、狗屠の実母は死んだと聞いた。
だとすると、こいつはあいつの乳母か……あるいは別の?
女は泥だらけの両手を夏侯蘭のほうに伸ばす。
それに合わせるように、じり、と夏侯蘭が後退する。
女が不意に、嗤《わら》った。
同時に、女は短刀を片手に襲い掛かってきた。
夏侯蘭が武器を持っていないことを見極めたうえでの攻撃らしい。
女の身長は、七尺五寸ある夏侯蘭の肩くらいまでしかないが、俊敏《しゅんびん》で、弾丸のようであった。
得物を持たない夏侯蘭がうろたえる隙を逃さず、短刀をめちゃくちゃに振り回してくる。
「やめろっ」
制止のことばをかけたところで、女がいうことを聞くとは思えなかった。
この女、狂っている。
夏侯蘭は片手で顔を守りながら、後ずさりすることしかできない。
このまま背中を向けないように注意しながら、遠ざかって、集落へ戻るか?
あるいは、この女の体力が尽きるのを待つしかないか。
びゅんびゅんと振るわれる剣の先が、ときどき夏侯蘭の衣の裾《すそ》を斬る。
どうやら場数を踏んでいるのは夏侯蘭のほうのようなので、かすり傷くらいですんでいる。
とはいえ、めちゃくちゃな攻撃であった。
ひたすら、夏侯蘭憎しで攻撃を仕掛けてきているのがわかる。
こういう思い込みと憎悪とで攻撃してくる者は始末が悪い。
夏侯蘭は、両手で頭をかばいつつ、機を待った。
さいわいなのは、女がひとりであること。
刃《やいば》をかわし続けることができれば、反撃できるかもしれない。
女は人の急所を狙う方法がわからないようで、剣筋もめちゃくちゃだった。
ほどなく、女は肩で息をしはじめた。
たとえどれほどの憎しみの力があろうと、やはり、体力が尽きるのが早かったようだ。
ひとまず安堵しつつ、夏侯蘭はかんがえた。
このまま女を置いて逃げることも可能だ。
だが、こいつが何者か、知っておかないと、のちのち面倒になりそうだ。
武器を奪って、反撃するか。
つづく
背中をちいさく丸めて前のめりに屈《かが》みこみ、なにやら熱心に手を動かしている。
ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ…
規則正しい音がした。
どうやら、地面を掘り返しているようだ。
ぞくっと背筋がふるえた。
墓の前で地面を掘り返している……妻の縁故《えんこ》の者が、櫛《くし》を取り返しに来た?
いや、おかしい。
妻の櫛は、たしかに高級品ではあったが、しかし奪い合いになるほどの価値はなかった。
そもそも、なんの便《たよ》りもなく妻の墓にやってくる親族に心当たりはない。
そこまで考えて、夏侯蘭《かこうらん》は気づいた。
墓の下には、櫛の他に、なにがある。
塩漬けにした『狗屠《くと》』の首だ。
この女、『狗屠』の首をとり返しに来たのか。
女の顔は見えない。
ただ、腰まで届く長い髪をしており、それが屈んでいるせいで、地面についているのが見えた。
よく見れば、装束も立派で、黄金の糸で縁取《ふちど》りされている、翡翠色のころもを身に着けていた。
それが、一心不乱に指で地面を掘りつづけているのだ。
身分のありそうな女だが、尋常ではなかった。
夏侯蘭は気づかれないよう、息を殺しながら、そっと腰に手をあてていた。
そして、おのれのうかつさを呪った。
ここ数か月、あまりに平和に過ごしていたので、近所に出かけるときは、剣を佩《お》びないようになっていたのだ。
どきん、どきんと心臓が早鐘打ち始めた。
落ち着け、相手は小柄な女ひとり。
襲い掛かってきても、撃退できる。
最低限、追っ払うことができればよいのだ。
女の白く細い手が、土にまみれている。
こんなに土と格闘していては、爪だって痛んでくるだろうに、それでもかまわず、女は熱心に土を掘り返そうとしていた。
背後に夏侯蘭がいるのにも気づかない様子だ。
だれか応援を頼むべきか。
それともこのまま引き返して、武器を取って帰ってくるか。
迷って、集落のほうに目をやった、そのときだった。
一心不乱に土を掻《か》き出していた女が、ゆっくりと夏侯蘭のほうを振り向いた。
乱れてこそいたが、手入れのよいつややかな髪である。
それが顔の全面に覆いかぶさるようになっているので、まるで黒い薄衣《うすごろも》をかぶっているように見えた。
邪魔だろうに、前にかぶさった長い髪をはらうこともせず、女は髪と髪のすきまから、夏侯蘭をじろりとにらむ。
ぎょっとしたことに、女の両目からは、血の涙がながれていた。
夏侯蘭が仰天《ぎょうてん》して、一歩、退《しりぞ》くと、女が唸るように言った。
「ぼうやを殺したのは、おまえか」
妖魔。
そんなことばが夏侯蘭の脳裏をよぎった。
ぼうや?
こいつ、やはり『狗屠』の関係者か。
なぜ『狗屠』を、ぼうやなどと呼ぶ?
荊州の、狗屠の実母は死んだと聞いた。
だとすると、こいつはあいつの乳母か……あるいは別の?
女は泥だらけの両手を夏侯蘭のほうに伸ばす。
それに合わせるように、じり、と夏侯蘭が後退する。
女が不意に、嗤《わら》った。
同時に、女は短刀を片手に襲い掛かってきた。
夏侯蘭が武器を持っていないことを見極めたうえでの攻撃らしい。
女の身長は、七尺五寸ある夏侯蘭の肩くらいまでしかないが、俊敏《しゅんびん》で、弾丸のようであった。
得物を持たない夏侯蘭がうろたえる隙を逃さず、短刀をめちゃくちゃに振り回してくる。
「やめろっ」
制止のことばをかけたところで、女がいうことを聞くとは思えなかった。
この女、狂っている。
夏侯蘭は片手で顔を守りながら、後ずさりすることしかできない。
このまま背中を向けないように注意しながら、遠ざかって、集落へ戻るか?
あるいは、この女の体力が尽きるのを待つしかないか。
びゅんびゅんと振るわれる剣の先が、ときどき夏侯蘭の衣の裾《すそ》を斬る。
どうやら場数を踏んでいるのは夏侯蘭のほうのようなので、かすり傷くらいですんでいる。
とはいえ、めちゃくちゃな攻撃であった。
ひたすら、夏侯蘭憎しで攻撃を仕掛けてきているのがわかる。
こういう思い込みと憎悪とで攻撃してくる者は始末が悪い。
夏侯蘭は、両手で頭をかばいつつ、機を待った。
さいわいなのは、女がひとりであること。
刃《やいば》をかわし続けることができれば、反撃できるかもしれない。
女は人の急所を狙う方法がわからないようで、剣筋もめちゃくちゃだった。
ほどなく、女は肩で息をしはじめた。
たとえどれほどの憎しみの力があろうと、やはり、体力が尽きるのが早かったようだ。
ひとまず安堵しつつ、夏侯蘭はかんがえた。
このまま女を置いて逃げることも可能だ。
だが、こいつが何者か、知っておかないと、のちのち面倒になりそうだ。
武器を奪って、反撃するか。
つづく
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