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締め切った扉を静かに開くと、まだ生々しい血の跡が床にひろがっているのがまず目に入ってきた。
けんめいに拭き掃除をしたのだろうが、それでもまだ、痕跡は消しきれないでいた。
想像以上の出血のあとに、孔明は息をのむ。
そして、そこで絶命したであろう男の姿を思い、ほんとうにかれがいなくなったのだということをやっと実感した。
ちょうど、血の跡に白い花びらが散っている。
侍女のだれかが手向けた花なのかもしれない。
それが床のしみの上にあざやかにあって、物悲しさを増していた。
「ひどいありさまでした。手練《てだ》れのしわざであることにまちがいはありませぬ」
伊籍はうめくように言った。
血に弱い劉琦は自室に引っ込んでしまった。
あれほど子犬のようにうるさかった花安英《かあんえい》は、いまは部屋の隅っこでしおらしくしている。
「劉公子のお立場は、日に日に悪くなっていく一方でした。そのなかで、程子文が、劉豫洲(劉備)にご助力願ったほうがよいのではと言い出しました。
そこへ、まるで計ったかのように麋竺どのがあらわれたのです。
どうやら麋竺どのは、意外にも程子文と以前から手紙でやり取りをしていて、意気投合していたようでした。
程子文と麋竺どのは、ずいぶん興奮した様子でした。このまま座して滅びを待つわけにはいかない、このままでは蔡瑁と…それから、『壺中』とやらに公子が害されてしまう。
そうなるまえに、こちらから仕掛けるのだと、そう息巻いていたのです」
「やはり、『壺中』か。機伯《きはく》どのは、ほんとうにその名に心当たりがない?」
「ありませぬ。もし危険な組織であると事前に知っていたなら、もうすこし強く程子文らを止めたのですが。申し訳ありませぬ」
「いいえ、責めているのではありません。しかし、どうして程子文らの決起の話が洩れたのです?」
「それもわからないのです。公子と親しい武将たちは、蔡瑁に煙たがれて襄陽城の外に追い出されていましたから、兵を集めるのに時間がかかりました。
手をまわしているうちに、だれかが密告したのかもしれませぬ。
ともかく、夕暮れのことでした。思い出すだけでもぞっとする、あの黄泉の底から響いたような悲鳴が聞こえて、言ってみると、ここで程子文が死んでいたのです。
そばには、斐仁が立っていました。
ただ、おかしなことがありまして」
「なんでしょう」
「斐仁は返り血を浴びていなかったのです。程子文は斬られたというより、切り裂かれたといっていいくらいのひどい斬られようでしたが、斐仁は返り血を浴びていなかった」
「部屋には、ほかにだれが?」
すると伊籍は、隅っこでちんまりとした花安英に目線を送った。
「おまえが最初に部屋に入ったのだ。詳しいことはおまえから軍師にお話しするのだ」
「話すも何も」
花安英は言いつつ、ふてくされたような顔をして、孔明を見た。
「悲鳴が聞こえたので、部屋に来てみたら、子文が死んでいて、ほら、そこにいる子龍どののところで、ちょうど扉に背を向けるかたちで、斐仁が立っていたのです」
斐仁と同じ位置に立っているといわれた趙雲は、いやそうな顔をして、一歩、横に動いた。
趙雲が立っていたのは、まさに扉の前で、子文の亡骸《なきがら》のあった位置と扉ののちょうど真ん中だった。
花安英が言うことがほんとうなら、斐仁は部屋に入ったままの状態で立っていたことになる。
「斐仁が下手人だと思うか」
趙雲の問いに、孔明はおのれの顎《あご》を撫でつつ、首を振った。
「返り血を浴びていなかったというのなら、その可能性はますます低くなったとみてよいだろう。
第一、斐仁は家族を殺された仇を討ちに襄陽城に来た。
そう考えるなら、『壺中』のだれかを殺しに来たと考えるのが自然だろう。
しかし、程子文が『壺中』だったとは考えづらい」
「なぜ」
「さっき機伯どのが言ったではないか。程子文らは『壺中』を警戒していたようだと」
「ああ、そうか」
「子文が『壺中』のだれかに間違えられた可能性もないわけではないが、外で殺されたのならともかく、室内で殺されたのなら、その可能性も低いだろう。
斐仁は、この部屋に迷わず入った。なぜ迷わなかったかわかるのかといえば、よそ者の斐仁が忍び込んだのに、すぐに騒ぎにならなかったからだ。
子文の悲鳴が聞こえて、はじめて人がこの部屋に集まり、斐仁を見つけた。返り血を浴びていない斐仁をな」
「なるほど、言わんとすることが見えてきた。下手人は別にいて、そいつに案内された斐仁は、ただ部屋に入ってきただけかもしれない、というわけか」
「そうだ。斐仁が部屋に入ったとき、下手人がいたのか、いなかったのか、それは本人に聞かないとわからない。もしいたとして、蔡瑁に黙っているのはなぜなのかも謎だ。
だいたい、斐仁の家族を子文が殺す、あるいは殺させる理由がない。子文はずっと襄陽城にいて、公子のために奔走していて、新野の状況なんぞにかまっていられなかったはずだ」
「そうだな。とすると、残るなぞはもう一つ。麋竺どのはどこへ消えたのか、というところだ」
孔明の疑問に、伊籍が答えた。
「麋竺どのは、蔡瑁らに姿を見られることを警戒して、城内ではなく町のほうに宿をとっていました。
こちらと連絡するときは、行商人の姿に変装して入ってきていたのです。
子文が死んでから、われらも心配になって、宿へ人を遣わしたのですが、すでにもぬけの殻でした」
「麋竺どのは、ひとりで宿に泊まっていたのでしょうか」
「いえ、女が一緒だったようです。若い女でしたが、顔を見られたくなかったのか、それとも貴人であったのか、いつも被り物をかぶって、宿の者から顔を隠していたとか」
「まいったな」
趙雲がぼやくのに、孔明も同意した。
あの人の好い麋竺が、女を連れて動いている。
その女の正体は、まったくわからない。
孔明は、麋竺が『壺中』かもしれない可能性も考えてみた。
しかし、麋竺の性格の良さや、孔明への親切に満ちた態度などを考慮に入れなくても、麋竺が劉備の義兄であるという立場を捨ててまで、おそらく蔡瑁とつながっている『壺中』に協力することは考えづらい。
とすると、麋竺は劉備のため、孔明のために、たった一人で暴走しているのだろうか。
しかし、なぜ?
「わからぬな」
つぶやいてから、孔明は、程子文が残した血の跡に、ふたたび目を落とした。
まるで早死にすることを予感していたような友。
女を愛し、酒を愛し、おのれの主君のために最期まで奔走した忠臣だった。
もっと語り合う場があったならよかった。
そしたら、こんなに早くにかれを失う事態にはならなかったかもしれない。
孔明はしゃがみ込むと、その乾いた血の跡に、そっと指先を添えた。
目を閉じて、かれのために祈る。
その目じりからは、哀悼の涙が流れていった。
つづく
締め切った扉を静かに開くと、まだ生々しい血の跡が床にひろがっているのがまず目に入ってきた。
けんめいに拭き掃除をしたのだろうが、それでもまだ、痕跡は消しきれないでいた。
想像以上の出血のあとに、孔明は息をのむ。
そして、そこで絶命したであろう男の姿を思い、ほんとうにかれがいなくなったのだということをやっと実感した。
ちょうど、血の跡に白い花びらが散っている。
侍女のだれかが手向けた花なのかもしれない。
それが床のしみの上にあざやかにあって、物悲しさを増していた。
「ひどいありさまでした。手練《てだ》れのしわざであることにまちがいはありませぬ」
伊籍はうめくように言った。
血に弱い劉琦は自室に引っ込んでしまった。
あれほど子犬のようにうるさかった花安英《かあんえい》は、いまは部屋の隅っこでしおらしくしている。
「劉公子のお立場は、日に日に悪くなっていく一方でした。そのなかで、程子文が、劉豫洲(劉備)にご助力願ったほうがよいのではと言い出しました。
そこへ、まるで計ったかのように麋竺どのがあらわれたのです。
どうやら麋竺どのは、意外にも程子文と以前から手紙でやり取りをしていて、意気投合していたようでした。
程子文と麋竺どのは、ずいぶん興奮した様子でした。このまま座して滅びを待つわけにはいかない、このままでは蔡瑁と…それから、『壺中』とやらに公子が害されてしまう。
そうなるまえに、こちらから仕掛けるのだと、そう息巻いていたのです」
「やはり、『壺中』か。機伯《きはく》どのは、ほんとうにその名に心当たりがない?」
「ありませぬ。もし危険な組織であると事前に知っていたなら、もうすこし強く程子文らを止めたのですが。申し訳ありませぬ」
「いいえ、責めているのではありません。しかし、どうして程子文らの決起の話が洩れたのです?」
「それもわからないのです。公子と親しい武将たちは、蔡瑁に煙たがれて襄陽城の外に追い出されていましたから、兵を集めるのに時間がかかりました。
手をまわしているうちに、だれかが密告したのかもしれませぬ。
ともかく、夕暮れのことでした。思い出すだけでもぞっとする、あの黄泉の底から響いたような悲鳴が聞こえて、言ってみると、ここで程子文が死んでいたのです。
そばには、斐仁が立っていました。
ただ、おかしなことがありまして」
「なんでしょう」
「斐仁は返り血を浴びていなかったのです。程子文は斬られたというより、切り裂かれたといっていいくらいのひどい斬られようでしたが、斐仁は返り血を浴びていなかった」
「部屋には、ほかにだれが?」
すると伊籍は、隅っこでちんまりとした花安英に目線を送った。
「おまえが最初に部屋に入ったのだ。詳しいことはおまえから軍師にお話しするのだ」
「話すも何も」
花安英は言いつつ、ふてくされたような顔をして、孔明を見た。
「悲鳴が聞こえたので、部屋に来てみたら、子文が死んでいて、ほら、そこにいる子龍どののところで、ちょうど扉に背を向けるかたちで、斐仁が立っていたのです」
斐仁と同じ位置に立っているといわれた趙雲は、いやそうな顔をして、一歩、横に動いた。
趙雲が立っていたのは、まさに扉の前で、子文の亡骸《なきがら》のあった位置と扉ののちょうど真ん中だった。
花安英が言うことがほんとうなら、斐仁は部屋に入ったままの状態で立っていたことになる。
「斐仁が下手人だと思うか」
趙雲の問いに、孔明はおのれの顎《あご》を撫でつつ、首を振った。
「返り血を浴びていなかったというのなら、その可能性はますます低くなったとみてよいだろう。
第一、斐仁は家族を殺された仇を討ちに襄陽城に来た。
そう考えるなら、『壺中』のだれかを殺しに来たと考えるのが自然だろう。
しかし、程子文が『壺中』だったとは考えづらい」
「なぜ」
「さっき機伯どのが言ったではないか。程子文らは『壺中』を警戒していたようだと」
「ああ、そうか」
「子文が『壺中』のだれかに間違えられた可能性もないわけではないが、外で殺されたのならともかく、室内で殺されたのなら、その可能性も低いだろう。
斐仁は、この部屋に迷わず入った。なぜ迷わなかったかわかるのかといえば、よそ者の斐仁が忍び込んだのに、すぐに騒ぎにならなかったからだ。
子文の悲鳴が聞こえて、はじめて人がこの部屋に集まり、斐仁を見つけた。返り血を浴びていない斐仁をな」
「なるほど、言わんとすることが見えてきた。下手人は別にいて、そいつに案内された斐仁は、ただ部屋に入ってきただけかもしれない、というわけか」
「そうだ。斐仁が部屋に入ったとき、下手人がいたのか、いなかったのか、それは本人に聞かないとわからない。もしいたとして、蔡瑁に黙っているのはなぜなのかも謎だ。
だいたい、斐仁の家族を子文が殺す、あるいは殺させる理由がない。子文はずっと襄陽城にいて、公子のために奔走していて、新野の状況なんぞにかまっていられなかったはずだ」
「そうだな。とすると、残るなぞはもう一つ。麋竺どのはどこへ消えたのか、というところだ」
孔明の疑問に、伊籍が答えた。
「麋竺どのは、蔡瑁らに姿を見られることを警戒して、城内ではなく町のほうに宿をとっていました。
こちらと連絡するときは、行商人の姿に変装して入ってきていたのです。
子文が死んでから、われらも心配になって、宿へ人を遣わしたのですが、すでにもぬけの殻でした」
「麋竺どのは、ひとりで宿に泊まっていたのでしょうか」
「いえ、女が一緒だったようです。若い女でしたが、顔を見られたくなかったのか、それとも貴人であったのか、いつも被り物をかぶって、宿の者から顔を隠していたとか」
「まいったな」
趙雲がぼやくのに、孔明も同意した。
あの人の好い麋竺が、女を連れて動いている。
その女の正体は、まったくわからない。
孔明は、麋竺が『壺中』かもしれない可能性も考えてみた。
しかし、麋竺の性格の良さや、孔明への親切に満ちた態度などを考慮に入れなくても、麋竺が劉備の義兄であるという立場を捨ててまで、おそらく蔡瑁とつながっている『壺中』に協力することは考えづらい。
とすると、麋竺は劉備のため、孔明のために、たった一人で暴走しているのだろうか。
しかし、なぜ?
「わからぬな」
つぶやいてから、孔明は、程子文が残した血の跡に、ふたたび目を落とした。
まるで早死にすることを予感していたような友。
女を愛し、酒を愛し、おのれの主君のために最期まで奔走した忠臣だった。
もっと語り合う場があったならよかった。
そしたら、こんなに早くにかれを失う事態にはならなかったかもしれない。
孔明はしゃがみ込むと、その乾いた血の跡に、そっと指先を添えた。
目を閉じて、かれのために祈る。
その目じりからは、哀悼の涙が流れていった。
つづく