※
夏侯蘭は闇の中にいた。
そとで、がたがた、ごとごとと大きな物音がしている。
からだを動かして様子を見に行きたいのだが、できない。
まるで自分が鉛になってしまったかのように重いのだ。
指一本、まともに動かせない。
苦しい。
いや、悔しい、ではないのか。
だんだん覚醒してきた頭が、さまざまな情報を思い出す。
自分は許都から来た。
そして、いま、荊州の最前線である新野にいる。
『狗屠』を目の前で取り逃がした。
趙雲と再会した…女を買ったのが趙雲でなくてよかった。
殺された女の痛ましい姿をみて、また『あの光景』を思い出してしまい、つい入った妓楼で、さんざん酔っぱらった。
そこからは朦朧としている。
気づいたら趙雲の部下という陳到という男の家にいて、そこでは良くしてもらったが、やはり『狗屠』を追わねばならぬと思い、逃げてきた。
屋敷の塀を飛び越えたとき、陳到のちいさな娘が追いかけてきて、
「小父さん、どこへ行くのっ」
と叫んだのが耳に残っている。
ほんとうに、おれはどこへ行こうとしているのだろう。
そして、ここはどこだ。
何者かに盛られた厄介な五石散の毒は抜けきらず、途中でまた意識が途絶えて、気づけば闇のなか。
もしや、また陳到の家に戻ってきているのだろうか。
だとしたら、あのちいさな娘に謝らなければ…
「気づいたようね」
低く乾いた女の声がした。
聞き覚えのない女の声だ。
なんとか重いまぶたをひらき、声のほうに瞳を向ける。
派手な色合いの衣をまとった、疲れた顔の女がいた。
いま許都でも流行している、蛇がのたくったような奇抜な結い方の髪をしている。
その髪に、飾れるだけの簪を挿しているようすからして、堅気の女ではないことが知れた。
「ここは」
どこだ、と答える前に、女が言った。
「安心なさい、ここは安全な場所」
「妓楼か?」
「そうね。あたしの名は藍玉。いまは、ほら、これを飲んで寝ていなさい」
言って、藍玉と名乗った女は、夏侯蘭を助け起こすと、手にしていた盃を口に運ぶ。
「これはんだ」
「あなたのからだの毒を外に出すためのお茶よ。だいじょうぶ、警戒しなくていい」
口に流れ込む苦い薬に四苦八苦しつつ、夏侯蘭はすばやく、藍玉を見た。
藍玉はやつれ、疲れた顔をしていたが、じゅうぶんに美しい女であった。
二十を過ぎたくらいだろうか。
脂粉の香りが、疲労困憊の夏侯蘭の鼻に心地よかった。
「なぜだ」
端的にたずねると、藍玉はすこしあきれたような答えを返してきた。
「質問の多い人ね。無理もないけれど。逆に聞くけれど、あなたは中原から来たの?」
「そうだ」
「中原のどこ? 訛りがあるわね、冀州の訛り」
「冀州の出身だ。だが許都から来た」
そこまで聞くと、女は何も言わずにすっと立ち上がり、衣擦れの音をさせて行ってしまいそうになる。
あわてて、夏侯蘭はたずねる。
「待て、どうしておれを助ける」
藍玉は振り返らず、短く答えた。
「姐さんを丁重に葬ってくれたからよ」
それだけ答えると、藍玉は扉を静かに閉めて、部屋から出ていった。
どっと力が抜ける。
姐さんだと?
あの斐仁とかいう男の相手をしていた女のことか。
どうしても、あの気の毒な娼妓の最期の姿が瞼に浮かぶ。
夏侯蘭は、からだにかけられた布団をきつく握りしめ、ぎゅっと顔をしかめると、その残像を頭から追い払おうとした。
その残像は、いつしか複雑に過去の残像と絡み合い、娼妓の顔が、妻の顔になったり、自分を嘲る役人の顔になったり、自分を助けると申し出てきた男の顔になったりした。
忘れるのだ、いまは悲しみに呑まれている場合ではない。
そうして目を閉じているうちに、黒い波のような眠気が襲ってきた。
さきほどの薬の効果かもしれない。
こんどは、夏侯蘭は素直に眠気に身を任せた。
いまは、眠れ。
来るべき時のために。
つづく
夏侯蘭は闇の中にいた。
そとで、がたがた、ごとごとと大きな物音がしている。
からだを動かして様子を見に行きたいのだが、できない。
まるで自分が鉛になってしまったかのように重いのだ。
指一本、まともに動かせない。
苦しい。
いや、悔しい、ではないのか。
だんだん覚醒してきた頭が、さまざまな情報を思い出す。
自分は許都から来た。
そして、いま、荊州の最前線である新野にいる。
『狗屠』を目の前で取り逃がした。
趙雲と再会した…女を買ったのが趙雲でなくてよかった。
殺された女の痛ましい姿をみて、また『あの光景』を思い出してしまい、つい入った妓楼で、さんざん酔っぱらった。
そこからは朦朧としている。
気づいたら趙雲の部下という陳到という男の家にいて、そこでは良くしてもらったが、やはり『狗屠』を追わねばならぬと思い、逃げてきた。
屋敷の塀を飛び越えたとき、陳到のちいさな娘が追いかけてきて、
「小父さん、どこへ行くのっ」
と叫んだのが耳に残っている。
ほんとうに、おれはどこへ行こうとしているのだろう。
そして、ここはどこだ。
何者かに盛られた厄介な五石散の毒は抜けきらず、途中でまた意識が途絶えて、気づけば闇のなか。
もしや、また陳到の家に戻ってきているのだろうか。
だとしたら、あのちいさな娘に謝らなければ…
「気づいたようね」
低く乾いた女の声がした。
聞き覚えのない女の声だ。
なんとか重いまぶたをひらき、声のほうに瞳を向ける。
派手な色合いの衣をまとった、疲れた顔の女がいた。
いま許都でも流行している、蛇がのたくったような奇抜な結い方の髪をしている。
その髪に、飾れるだけの簪を挿しているようすからして、堅気の女ではないことが知れた。
「ここは」
どこだ、と答える前に、女が言った。
「安心なさい、ここは安全な場所」
「妓楼か?」
「そうね。あたしの名は藍玉。いまは、ほら、これを飲んで寝ていなさい」
言って、藍玉と名乗った女は、夏侯蘭を助け起こすと、手にしていた盃を口に運ぶ。
「これはんだ」
「あなたのからだの毒を外に出すためのお茶よ。だいじょうぶ、警戒しなくていい」
口に流れ込む苦い薬に四苦八苦しつつ、夏侯蘭はすばやく、藍玉を見た。
藍玉はやつれ、疲れた顔をしていたが、じゅうぶんに美しい女であった。
二十を過ぎたくらいだろうか。
脂粉の香りが、疲労困憊の夏侯蘭の鼻に心地よかった。
「なぜだ」
端的にたずねると、藍玉はすこしあきれたような答えを返してきた。
「質問の多い人ね。無理もないけれど。逆に聞くけれど、あなたは中原から来たの?」
「そうだ」
「中原のどこ? 訛りがあるわね、冀州の訛り」
「冀州の出身だ。だが許都から来た」
そこまで聞くと、女は何も言わずにすっと立ち上がり、衣擦れの音をさせて行ってしまいそうになる。
あわてて、夏侯蘭はたずねる。
「待て、どうしておれを助ける」
藍玉は振り返らず、短く答えた。
「姐さんを丁重に葬ってくれたからよ」
それだけ答えると、藍玉は扉を静かに閉めて、部屋から出ていった。
どっと力が抜ける。
姐さんだと?
あの斐仁とかいう男の相手をしていた女のことか。
どうしても、あの気の毒な娼妓の最期の姿が瞼に浮かぶ。
夏侯蘭は、からだにかけられた布団をきつく握りしめ、ぎゅっと顔をしかめると、その残像を頭から追い払おうとした。
その残像は、いつしか複雑に過去の残像と絡み合い、娼妓の顔が、妻の顔になったり、自分を嘲る役人の顔になったり、自分を助けると申し出てきた男の顔になったりした。
忘れるのだ、いまは悲しみに呑まれている場合ではない。
そうして目を閉じているうちに、黒い波のような眠気が襲ってきた。
さきほどの薬の効果かもしれない。
こんどは、夏侯蘭は素直に眠気に身を任せた。
いまは、眠れ。
来るべき時のために。
つづく