趙雲もまた、自分めがけてやってくる武者の姿に気づいたようである。
雑兵《ぞうひょう》を片付ける手を止めて、振り返る。
その返り血を浴びた顔には、人間らしい表情の揺れはない。
「貴殿は、平狄将軍《へいてきしょうぐん》の張郃《ちょうこう》どのであったな」
混乱の中心にあってなお、声が震えるわけでもなし。
その胆力に、張郃はおもわずごくりと唾をのんだ。
「そうだ。常山真定《じょうざんしんてい》の趙子龍、久しいな」
「先へ急ぐ。そこをどいてもらおう」
「たわけたことを! これより先には進ませぬ! その首、土産に置いていくがよい!」
言いざま、張郃はぶぅん、と槍で趙雲を薙ぎ払おうとした。
だが、趙雲は難なくそれを避ける。
張郃は舌打ちしつつ、槍をかまえ直して、今度は首もとめがけて槍で突く。
しかし、趙雲は自身の槍で、その攻撃を払った。
だが張郃はあきらめない。
つぎは胸元、次は腹、それがだめなら、また首元……と攻撃をつぎつぎと思いつく限り繰り出して見せるのだが、趙雲はこちらの心のうちが読めているのではないかというほどあざやかに、すべてをかわしてみせた。
激しい撃ち合いのなかで、さすがの張郃も認めずにはいられなかった。
おれがいま戦っているのは、すでに人の域からはみだした、なにかなのだ。
化け物、武神、魔人……そんなことばが、ぱっと浮かんではつぎつぎ消えていく。
もはや、さきほどまでたっぷりあった余裕は、みじんも残っていない。
張郃の背後では、曹洪《そうこう》が逃げようとしているところで、張郃が自分を助けに来てくれたと信じているらしく、
「すまぬっ、恩に着るぞ!」
と叫んでいた。
その声が震えているのは、恐怖から脱することが出来た安堵ゆえか、それとも嫌っていた男が助けに来てくれたという感激ゆえなのか。
わからなかったし、いまの張郃にはどうでもよいことであった。
何としても、目の前のこの怪物を倒すのだ。
汗が噴き出て顔じゅうを濡らす。
趙雲の攻撃のほうがあいかわらず優勢で、張郃の上半身の鎧に守られていないところが、ところどころ傷がつきはじめていた。
槍を持つ手がだんだんしびれてきている。
趙雲の攻撃があまりに強く、重かったために、それを受け続けた結果、手がしびれてきたのだ。
『こいつだって、疲れているはずだ。勝機はある!』
自分を励まし、なおも撃ち合いをしようとした、そのときであった。
銅鑼《どら》が激しくたたかれた。
撤退を合図する銅鑼だ。
なぜだ?
ちっ、と舌打ちをして目線だけ銅鑼のほうを見れば、曹洪自らが鳴らしている。
おれを助けるつもりなら、見当違いだぞ、といらだっていると、曹洪が無情に言った。
「曹丞相の命である、その武者を生け捕りにせよ、殺してはならぬっ」
「なんだと!」
おもわず声が出た。
と同時に、曹操の悪い癖が出たのだと、瞬時に察した。
曹操はともかく才覚のある士に弱い。
目の前で、そのきらびやかな才能を見せつけられると、乙女が美青年に恋するように、手中にいれねばと思い込んでしまうのだ。
自分のときも、その曹操の『恋』によって救われているだけに、なお心情は複雑だった。
「矢を射掛けるな、かならず生け捕りにせよ、逃すなっ!」
こいつを無傷で捕らえようとするのは、ムリだ。
張郃は声を大にして曹操に叫びたかった。
だが、当の曹操は高台の天蓋のなかにいて、こちらの声の届かないところにいる。
「お引きください、儁乂《しゅんがい》さまっ、曹丞相のご命令ですぞ!」
あくまで冷静な劉白《りゅうはく》が、張郃に必死に呼びかけてくる。
そのあいだも、趙雲は銅鑼の音にかまわず、張郃に攻撃をしかけてきていた。
趙雲もまた、張郃を好敵手と認め、なんとしても倒そうとかんがえているのが、気配で分かった。
『水を差してくれるものだ』
張郃はおのれの思考をまぜっかえして、それから、渾身の力で趙雲の一撃を跳ね返す。
「この勝負、いずれ!」
そう言うと、隙を見て場を離れた。
「それっ、網をかけよ!」
曹洪が指示をすると、歩兵たちがいっせいに、どこから用意した者か、網や縄を趙雲にいっせいに投げた。
それを振り返りながら見て、ああ、こいつもおしまいかな、と張郃は肩で息をしながら思った。
だが、趙雲は、腰にある豪勢な鞘から剣を抜き放ち、自分に投じられた縄だの網だのを、まるで抵抗なく切り払って行った。
だめだっ、とか、逃げられるぞっ、とか、そんな怒号がひびいた。
曹洪がきいきいと叫んでいるのが聞こえる。
「おのれ、青釭《せいこう》の剣か! きさま、それをどこで手に入れた!」
曹操がじきじきに夏侯恩《かこうおん》に下賜していたところを、張郃は見ていた。
夏侯恩の、どこか内面の特徴の出来きっていない青臭い顔が浮かぶ。
あいつは死んだんだな、と醒めた心でおもった。
趙雲は、自分への捕獲の命令が出たと知ると、前方の網をすべて切り払い、こんどは南へ向けて走り出した。
趙雲自身の胆力もすさまじいが、馬の体力も尋常ではない。
蹄《ひずめ》の音を高らかにさせて、趙雲と馬は張郃から遠ざかっていく。
『あいつを捕えられるものは、この戦場にはおらんだろう』
趙雲が、行く手を阻む将たちを、またつぎつぎと倒していく姿を眺めつつ、張郃は苦く思った。
『やつのあざなのとおり、龍のようなやつだ。
いまでこそ地に這い蹲《つくば》っておるが、やがて飛翔してとんでもないところへ到達するであろうよ』
張郃は、自身の勘の良さを信じている。
だからこそ、趙雲が生き残ることも予感できたし、また、かれの未来までも予測できた。
「だが、ここにおれがいることを忘れるな! 次こそは、かならず倒す!」
つよく宣言して、それから、馬首を曹操のいる北へめぐらせた。
つづく
雑兵《ぞうひょう》を片付ける手を止めて、振り返る。
その返り血を浴びた顔には、人間らしい表情の揺れはない。
「貴殿は、平狄将軍《へいてきしょうぐん》の張郃《ちょうこう》どのであったな」
混乱の中心にあってなお、声が震えるわけでもなし。
その胆力に、張郃はおもわずごくりと唾をのんだ。
「そうだ。常山真定《じょうざんしんてい》の趙子龍、久しいな」
「先へ急ぐ。そこをどいてもらおう」
「たわけたことを! これより先には進ませぬ! その首、土産に置いていくがよい!」
言いざま、張郃はぶぅん、と槍で趙雲を薙ぎ払おうとした。
だが、趙雲は難なくそれを避ける。
張郃は舌打ちしつつ、槍をかまえ直して、今度は首もとめがけて槍で突く。
しかし、趙雲は自身の槍で、その攻撃を払った。
だが張郃はあきらめない。
つぎは胸元、次は腹、それがだめなら、また首元……と攻撃をつぎつぎと思いつく限り繰り出して見せるのだが、趙雲はこちらの心のうちが読めているのではないかというほどあざやかに、すべてをかわしてみせた。
激しい撃ち合いのなかで、さすがの張郃も認めずにはいられなかった。
おれがいま戦っているのは、すでに人の域からはみだした、なにかなのだ。
化け物、武神、魔人……そんなことばが、ぱっと浮かんではつぎつぎ消えていく。
もはや、さきほどまでたっぷりあった余裕は、みじんも残っていない。
張郃の背後では、曹洪《そうこう》が逃げようとしているところで、張郃が自分を助けに来てくれたと信じているらしく、
「すまぬっ、恩に着るぞ!」
と叫んでいた。
その声が震えているのは、恐怖から脱することが出来た安堵ゆえか、それとも嫌っていた男が助けに来てくれたという感激ゆえなのか。
わからなかったし、いまの張郃にはどうでもよいことであった。
何としても、目の前のこの怪物を倒すのだ。
汗が噴き出て顔じゅうを濡らす。
趙雲の攻撃のほうがあいかわらず優勢で、張郃の上半身の鎧に守られていないところが、ところどころ傷がつきはじめていた。
槍を持つ手がだんだんしびれてきている。
趙雲の攻撃があまりに強く、重かったために、それを受け続けた結果、手がしびれてきたのだ。
『こいつだって、疲れているはずだ。勝機はある!』
自分を励まし、なおも撃ち合いをしようとした、そのときであった。
銅鑼《どら》が激しくたたかれた。
撤退を合図する銅鑼だ。
なぜだ?
ちっ、と舌打ちをして目線だけ銅鑼のほうを見れば、曹洪自らが鳴らしている。
おれを助けるつもりなら、見当違いだぞ、といらだっていると、曹洪が無情に言った。
「曹丞相の命である、その武者を生け捕りにせよ、殺してはならぬっ」
「なんだと!」
おもわず声が出た。
と同時に、曹操の悪い癖が出たのだと、瞬時に察した。
曹操はともかく才覚のある士に弱い。
目の前で、そのきらびやかな才能を見せつけられると、乙女が美青年に恋するように、手中にいれねばと思い込んでしまうのだ。
自分のときも、その曹操の『恋』によって救われているだけに、なお心情は複雑だった。
「矢を射掛けるな、かならず生け捕りにせよ、逃すなっ!」
こいつを無傷で捕らえようとするのは、ムリだ。
張郃は声を大にして曹操に叫びたかった。
だが、当の曹操は高台の天蓋のなかにいて、こちらの声の届かないところにいる。
「お引きください、儁乂《しゅんがい》さまっ、曹丞相のご命令ですぞ!」
あくまで冷静な劉白《りゅうはく》が、張郃に必死に呼びかけてくる。
そのあいだも、趙雲は銅鑼の音にかまわず、張郃に攻撃をしかけてきていた。
趙雲もまた、張郃を好敵手と認め、なんとしても倒そうとかんがえているのが、気配で分かった。
『水を差してくれるものだ』
張郃はおのれの思考をまぜっかえして、それから、渾身の力で趙雲の一撃を跳ね返す。
「この勝負、いずれ!」
そう言うと、隙を見て場を離れた。
「それっ、網をかけよ!」
曹洪が指示をすると、歩兵たちがいっせいに、どこから用意した者か、網や縄を趙雲にいっせいに投げた。
それを振り返りながら見て、ああ、こいつもおしまいかな、と張郃は肩で息をしながら思った。
だが、趙雲は、腰にある豪勢な鞘から剣を抜き放ち、自分に投じられた縄だの網だのを、まるで抵抗なく切り払って行った。
だめだっ、とか、逃げられるぞっ、とか、そんな怒号がひびいた。
曹洪がきいきいと叫んでいるのが聞こえる。
「おのれ、青釭《せいこう》の剣か! きさま、それをどこで手に入れた!」
曹操がじきじきに夏侯恩《かこうおん》に下賜していたところを、張郃は見ていた。
夏侯恩の、どこか内面の特徴の出来きっていない青臭い顔が浮かぶ。
あいつは死んだんだな、と醒めた心でおもった。
趙雲は、自分への捕獲の命令が出たと知ると、前方の網をすべて切り払い、こんどは南へ向けて走り出した。
趙雲自身の胆力もすさまじいが、馬の体力も尋常ではない。
蹄《ひずめ》の音を高らかにさせて、趙雲と馬は張郃から遠ざかっていく。
『あいつを捕えられるものは、この戦場にはおらんだろう』
趙雲が、行く手を阻む将たちを、またつぎつぎと倒していく姿を眺めつつ、張郃は苦く思った。
『やつのあざなのとおり、龍のようなやつだ。
いまでこそ地に這い蹲《つくば》っておるが、やがて飛翔してとんでもないところへ到達するであろうよ』
張郃は、自身の勘の良さを信じている。
だからこそ、趙雲が生き残ることも予感できたし、また、かれの未来までも予測できた。
「だが、ここにおれがいることを忘れるな! 次こそは、かならず倒す!」
つよく宣言して、それから、馬首を曹操のいる北へめぐらせた。
つづく
※ いつも閲覧してくださっているみなさま、ありがとうございます!(^^)!
タイトル回収の回でありました;
いま、原稿にルビを振る作業をしながら、これもなかなかに苦労した作品だったなと思い出しました。
いま取り組んでいる赤壁編も、かなりの難産ですが、なるべく早くみなさまに見ていただけるよう、努力して作っていきます。
それでは、次回をどうぞおたのしみにー(*^▽^*)