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劉備は陳到らに守られ、けんめいに馬を南へ走らせていた。
孔明の作ってくれた地図にある、長阪橋を目指しているのである。
どどどど、と馬の蹄の音がつづくが、それがもしかしたら追いついてきた曹操軍の蹄の音ではないかと思う時があり、こころがまったく休まらない。
そのうえ、頭の中は、自分を責めることばと、恐怖とでいっぱいである。
『こんなことになるのなら、孔明の言うことをもっとよく聞くべきであった!』
激しい後悔が胸の中で渦巻いている。
唇からは、すまない、すまないという謝罪の言葉を自然と口にしていた。
やがて、白々と夜が明けてきた。
いまのところ、曹操の軍兵が自分に追いすがってくる気配はない。
おそらく、あわれな難民たちが盾になってくれているのだ。
曹操軍も、かれらを蹴散らしているがために、なかなか自分に追いつけないでいる。
『なんという無残なことだ!』
自分を信じてついてきてくれた民のことを思うと、ひたすら泣けてくる。
だが、ここで泣いても、誰も救われないというのも、劉備にはよくわかっていた。
馬がつぶれるのを防ぐため、劉備たちは馬をあたらしいものに交代して、さらに南の橋へと向かい始めた。
やがて河岸が見えてきた。
ようやく、長阪橋にたどり着いたらしい。
橋の向こうにはこんもりとした森があり、そこですこし休めそうであった。
振り返ると、いまのところ曹操軍が追い付いてきている気配はない。
「河。河か」
干からびた声で、劉備はつぶやく。
「雲長か孔明が船をつれてやってきてくれないだろうか」
希望を口にするも、随伴している者たちは、何も答えなかった。
あいかわらず川面には小舟があるばかりで期待していた助け手はない。
ひたすら街道を南へ逃げるほかなかった。
だが、このまま追いかけっこをつづけていても、いずれ、身軽な曹操の軽騎兵に追いつかれてしまうだろう。
すると、北から麋芳《びほう》が追いかけてきた。
「わが君、ご無事ですかっ」
麋芳は酒でも飲んだかのような紅い顔をして、劉備の前へあらわれた。
「おお、わが君! ご無事でなによりでございます」
「おまえも無事なようだな、よかった、うれしいぞ」
素直に言うと、麋芳はふうっと野獣のように息を吐き、言った。
「それより、一大事でございます、子龍がわれらを裏切りました」
「なんだと?」
目が点になるとはこのことだろう。
劉備は思いもかけないそのことばに、あっけにとられるほかない。
「なにかの間違いであろう」
感情を乱さない劉備にいら立ったようで、麋芳は、前のめりになって言う。
「しかし、実際にやつは北へ向かっていったのです。
きっと、曹操に降伏をしに行ったのでしょう。
これを裏切りと言わず、なんと言いましょうか!」
「馬鹿なっ」
「この目で見ました、まちがいございませぬ、子龍はわれらを裏切ったのです!」
「黙れっ、子龍にかぎって、わしを裏切ったりするものかっ!」
叫ぶと、劉備は手にしていた戟《げき》を麋芳に向けて投げつけていた。
麋芳は悲鳴をあげて、それを避ける。
癪《しゃく》に障り、劉備はまた怒鳴った。
「これ以上、くだらぬことを言うつもりなら、わしの前から消えるがいい!
子龍が裏切るはずがないのだっ!」
「でも、北へ逃げたというのだろう」
いのししが殺気を押し殺して唸っているような声がした。
劉備がおどろいて振り返ると、張飛が、ひげを逆立てて怒っていた。
「子龍め、麋芳の言うとおりであれば、ただではすまさぬ!」
また厄介なのが絡んできたなと思いつつ、劉備は自分の動揺が顔に出ないようつとめながらたしなめた。
「益徳、子龍を信じろ。おまえは仲間を疑うのか」
張飛はふん、と鼻を鳴らした。
「ことばよりなにより、行動がその人を表すのだと、兄者は常日頃から言っているではないか!
子龍は北へ逃げた! それがわれらを裏切った証左よ」
「北に用事があったのにちがいない」
劉備のことばに、張飛は目をまん丸にして抗議した。
「用事ってのは、なんだよ。降伏するのが用事じゃないのか、ええ?
俺はやつを許さぬ! ふたたびやつが現れたなら、きっと叩き斬ってくれる!」
そう言って、蛇矛をぐっと握りしめる。
そして、自らもまた、北へ向かい始める。
あわてて劉備はその背中に言った。
「おまえはどこへいくのだ」
「殿軍《しんがり》を勤めに行くのだよ。
兄者はその森の中ですこし休んでいてくれ。子龍の首を持っていくから!」
「おい、ほんとうに」
よせ、と言いかけたところで、陳到が間に入ってきて、劉備に向かって、首を横に振って見せた。
どうやら、言っても無駄だ、ということらしい。
さらに、陳到は小声で言う。
「もし益徳どのと子龍どのが戦いはじめたら、それがしが止めて見せます」
「おお、そうか、そうしてくれるか」
劉備は愁眉を開いて喜んだ。
とぼけた顔をした男だが、陳到が趙雲と並ぶ武勇の持ち主であることは、劉備もよく知っているのだ。
陳到は、了解した、というふうに、今度はかるく会釈して、それから張飛のあとを追った。
かれらを見送ったのち、劉備は生き残った者たちをつれ、森の中で休みはじめた。
悲しみというよりも、虚脱感が襲ってきて、やるせない気分だった。
つづく
劉備は陳到らに守られ、けんめいに馬を南へ走らせていた。
孔明の作ってくれた地図にある、長阪橋を目指しているのである。
どどどど、と馬の蹄の音がつづくが、それがもしかしたら追いついてきた曹操軍の蹄の音ではないかと思う時があり、こころがまったく休まらない。
そのうえ、頭の中は、自分を責めることばと、恐怖とでいっぱいである。
『こんなことになるのなら、孔明の言うことをもっとよく聞くべきであった!』
激しい後悔が胸の中で渦巻いている。
唇からは、すまない、すまないという謝罪の言葉を自然と口にしていた。
やがて、白々と夜が明けてきた。
いまのところ、曹操の軍兵が自分に追いすがってくる気配はない。
おそらく、あわれな難民たちが盾になってくれているのだ。
曹操軍も、かれらを蹴散らしているがために、なかなか自分に追いつけないでいる。
『なんという無残なことだ!』
自分を信じてついてきてくれた民のことを思うと、ひたすら泣けてくる。
だが、ここで泣いても、誰も救われないというのも、劉備にはよくわかっていた。
馬がつぶれるのを防ぐため、劉備たちは馬をあたらしいものに交代して、さらに南の橋へと向かい始めた。
やがて河岸が見えてきた。
ようやく、長阪橋にたどり着いたらしい。
橋の向こうにはこんもりとした森があり、そこですこし休めそうであった。
振り返ると、いまのところ曹操軍が追い付いてきている気配はない。
「河。河か」
干からびた声で、劉備はつぶやく。
「雲長か孔明が船をつれてやってきてくれないだろうか」
希望を口にするも、随伴している者たちは、何も答えなかった。
あいかわらず川面には小舟があるばかりで期待していた助け手はない。
ひたすら街道を南へ逃げるほかなかった。
だが、このまま追いかけっこをつづけていても、いずれ、身軽な曹操の軽騎兵に追いつかれてしまうだろう。
すると、北から麋芳《びほう》が追いかけてきた。
「わが君、ご無事ですかっ」
麋芳は酒でも飲んだかのような紅い顔をして、劉備の前へあらわれた。
「おお、わが君! ご無事でなによりでございます」
「おまえも無事なようだな、よかった、うれしいぞ」
素直に言うと、麋芳はふうっと野獣のように息を吐き、言った。
「それより、一大事でございます、子龍がわれらを裏切りました」
「なんだと?」
目が点になるとはこのことだろう。
劉備は思いもかけないそのことばに、あっけにとられるほかない。
「なにかの間違いであろう」
感情を乱さない劉備にいら立ったようで、麋芳は、前のめりになって言う。
「しかし、実際にやつは北へ向かっていったのです。
きっと、曹操に降伏をしに行ったのでしょう。
これを裏切りと言わず、なんと言いましょうか!」
「馬鹿なっ」
「この目で見ました、まちがいございませぬ、子龍はわれらを裏切ったのです!」
「黙れっ、子龍にかぎって、わしを裏切ったりするものかっ!」
叫ぶと、劉備は手にしていた戟《げき》を麋芳に向けて投げつけていた。
麋芳は悲鳴をあげて、それを避ける。
癪《しゃく》に障り、劉備はまた怒鳴った。
「これ以上、くだらぬことを言うつもりなら、わしの前から消えるがいい!
子龍が裏切るはずがないのだっ!」
「でも、北へ逃げたというのだろう」
いのししが殺気を押し殺して唸っているような声がした。
劉備がおどろいて振り返ると、張飛が、ひげを逆立てて怒っていた。
「子龍め、麋芳の言うとおりであれば、ただではすまさぬ!」
また厄介なのが絡んできたなと思いつつ、劉備は自分の動揺が顔に出ないようつとめながらたしなめた。
「益徳、子龍を信じろ。おまえは仲間を疑うのか」
張飛はふん、と鼻を鳴らした。
「ことばよりなにより、行動がその人を表すのだと、兄者は常日頃から言っているではないか!
子龍は北へ逃げた! それがわれらを裏切った証左よ」
「北に用事があったのにちがいない」
劉備のことばに、張飛は目をまん丸にして抗議した。
「用事ってのは、なんだよ。降伏するのが用事じゃないのか、ええ?
俺はやつを許さぬ! ふたたびやつが現れたなら、きっと叩き斬ってくれる!」
そう言って、蛇矛をぐっと握りしめる。
そして、自らもまた、北へ向かい始める。
あわてて劉備はその背中に言った。
「おまえはどこへいくのだ」
「殿軍《しんがり》を勤めに行くのだよ。
兄者はその森の中ですこし休んでいてくれ。子龍の首を持っていくから!」
「おい、ほんとうに」
よせ、と言いかけたところで、陳到が間に入ってきて、劉備に向かって、首を横に振って見せた。
どうやら、言っても無駄だ、ということらしい。
さらに、陳到は小声で言う。
「もし益徳どのと子龍どのが戦いはじめたら、それがしが止めて見せます」
「おお、そうか、そうしてくれるか」
劉備は愁眉を開いて喜んだ。
とぼけた顔をした男だが、陳到が趙雲と並ぶ武勇の持ち主であることは、劉備もよく知っているのだ。
陳到は、了解した、というふうに、今度はかるく会釈して、それから張飛のあとを追った。
かれらを見送ったのち、劉備は生き残った者たちをつれ、森の中で休みはじめた。
悲しみというよりも、虚脱感が襲ってきて、やるせない気分だった。
つづく
※ いつも閲覧してくださっているみなさま、ありがとうございます!
迫る曹操軍、そして夫人たちを見失った趙雲と、かれを誤解する張飛……
演義だと見せ場の多いところです。
これからどうなるか? どうぞ次回もおたのしみにー(*^▽^*)