※
気づけば、孔明は花安英とぶつかった廊下にまで戻ってきていた。
さきほどぶつかったときに散った白の花びらが、まだ廊下に残っている。
だれもいない。
しんとした廊下のなかで、孔明は、柱にもたれて、こみ上げる嘔吐感と戦っていた。
深い呼吸をくりかえしているうちに、頭痛も落ち着いて、わずかな吐き気が残る程度にまでおさまった。
大きく息をつき、柱に首をあずける。
なんの因果か。
すでに太陽は西に傾きはじめている。
その光の色はあざやかな茜色に転じて、孔明の立つ廊下と、花々の咲き誇る中庭を血のように染め上げる。
あのときと同じ。
豫章から逃げてきた叔父と孔明たちを支援してくれた劉表に、礼をいうための登城だった。
まずは孔明と叔父が劉表に型通りの挨拶をした。
そのあと、叔父だけが残り、劉表となにか話し合いをした。
会談は喧嘩別れに終わったらしく、温厚な叔父が、めずらしく怒り心頭と言う様子で帰って来た。
会談が終わったのも、夕暮れであった。
すでに日が落ちかけていたので、城市の宿には帰らず、襄陽城に泊まることになった。
ふたりは、ひとに案内されて、泊まる予定になっている部屋へ向かい、廊下を移動していた。
そのとき、不意に、柱の影から文官装束の男があらわれて、叔父ににこやかに話しかけてきた。
「豫章は残念でしたな」
そんなことを言っていた。
男は叔父に近づいて、不意に前かがみになり、叔父に体当たりした。
異変に気づいたのは、その直後だ。
孔明が叔父のほうをみたとき、すでに男の突き出した刃は、叔父の身体に深々と突き刺さっていた。
こぼれ落ちる真っ赤な血潮が、廊下をゆっくりと染め上げていく…
悲鳴をあげるひまもなかった。
息をのみ、叔父が命を消していくのを見ていくしかできない。
あの日から、なにもかもが変わってしまったのだ。
想い出の鮮明さに、孔明は涙をこぼした。
それがおのれを憐れんでいるものか、それとも叔父への哀惜のためか、おのれのこころがわからなかった。
ただ、はっきりわかっているのは、ひたすら悲しいということであった。
ちょうど孔明のもたれている柱の真正面の花窓から、太陽の残滓が入り込む。
なぜ眩しいのだろうと不思議に思い、花窓の向こうをみる。
すると、花窓から差し込む夕陽が、室内にあるだれかの鏡に反射し、まともにその光を受けているせいだとわかった。
目を細めて、しばらく緋色のなかで立ち尽くしていた。
徐々に夕陽は力をなくし、まぶしさも落ち着いてくる。
すると今度は、中庭を挟んで向かい側の廊下に、だれかが立っているのに気がついた。
追いかけてきた伊籍かと思ったが、そうではない。
自分と同じくらいの背の高さの男だ。
逆光のためによく顔を見ることができないが、武官装束のようである。
腰に剣を佩いている。
叔父を殺した男も、そんなふうに剣を佩いていたのかな、とぼんやり考えていると、向かい側に立つ男は言った。
「失礼、お尋ねしてもよいだろうか」
深みのある声だが、やはり聞き覚えはない。
冀州のほうの訛りがある。
「どうもこの城には不案内ゆえ、迷ってしまったらしい。
貴殿の立つ廊下の向こうが、劉州牧の居室になるのだろうか」
このひとも、この城で迷子になっているなとおかしくなって、孔明は、すこし笑みを浮かべた。
「いえ、こちらから先は劉公子のお住まいですよ。
劉州牧のいらっしゃるところは、逆です。
いまいらした道を、まっすぐに戻られたほうがいい。
わたしもこの城の者ではないので、その先のことはわかりません。
だれかいるでしょうから、案内を頼まれたらいいでしょう」
「左様か、ではそうさせてもらおう。かたじけない」
「どういたしまして」
武人が背を向けるのをじっと孔明が見守っていると、ぴたりとその男が立ち止まった。
首だけすこし動かして、また尋ねてくる。
「かさねて失礼。貴殿はここで、なにをしておられる」
泣いていたところを見られたのかなと、恥ずかしく思いながらも、孔明は素直に答えていた。
「ぼんやりしておりました。すこし、むかしのことなどを思い出しましたので」
「左様か。不躾な質問を許されよ。
そろそろ日が落ちる。冷えるので、そろそろ部屋なり宿なりに戻られるがよかろう」
親切な人だな、心配してくれているのか。
感心して、孔明は応じた。
「ありがとうございます、そうします」
男は、ちいさくうなずくと、今度は振り返らずに去って行った。
孔明がそのうしろ姿を見送っていると、それとすれ違うようにして、徐庶がこちらに向かってくるのが見えた。
つづく
気づけば、孔明は花安英とぶつかった廊下にまで戻ってきていた。
さきほどぶつかったときに散った白の花びらが、まだ廊下に残っている。
だれもいない。
しんとした廊下のなかで、孔明は、柱にもたれて、こみ上げる嘔吐感と戦っていた。
深い呼吸をくりかえしているうちに、頭痛も落ち着いて、わずかな吐き気が残る程度にまでおさまった。
大きく息をつき、柱に首をあずける。
なんの因果か。
すでに太陽は西に傾きはじめている。
その光の色はあざやかな茜色に転じて、孔明の立つ廊下と、花々の咲き誇る中庭を血のように染め上げる。
あのときと同じ。
豫章から逃げてきた叔父と孔明たちを支援してくれた劉表に、礼をいうための登城だった。
まずは孔明と叔父が劉表に型通りの挨拶をした。
そのあと、叔父だけが残り、劉表となにか話し合いをした。
会談は喧嘩別れに終わったらしく、温厚な叔父が、めずらしく怒り心頭と言う様子で帰って来た。
会談が終わったのも、夕暮れであった。
すでに日が落ちかけていたので、城市の宿には帰らず、襄陽城に泊まることになった。
ふたりは、ひとに案内されて、泊まる予定になっている部屋へ向かい、廊下を移動していた。
そのとき、不意に、柱の影から文官装束の男があらわれて、叔父ににこやかに話しかけてきた。
「豫章は残念でしたな」
そんなことを言っていた。
男は叔父に近づいて、不意に前かがみになり、叔父に体当たりした。
異変に気づいたのは、その直後だ。
孔明が叔父のほうをみたとき、すでに男の突き出した刃は、叔父の身体に深々と突き刺さっていた。
こぼれ落ちる真っ赤な血潮が、廊下をゆっくりと染め上げていく…
悲鳴をあげるひまもなかった。
息をのみ、叔父が命を消していくのを見ていくしかできない。
あの日から、なにもかもが変わってしまったのだ。
想い出の鮮明さに、孔明は涙をこぼした。
それがおのれを憐れんでいるものか、それとも叔父への哀惜のためか、おのれのこころがわからなかった。
ただ、はっきりわかっているのは、ひたすら悲しいということであった。
ちょうど孔明のもたれている柱の真正面の花窓から、太陽の残滓が入り込む。
なぜ眩しいのだろうと不思議に思い、花窓の向こうをみる。
すると、花窓から差し込む夕陽が、室内にあるだれかの鏡に反射し、まともにその光を受けているせいだとわかった。
目を細めて、しばらく緋色のなかで立ち尽くしていた。
徐々に夕陽は力をなくし、まぶしさも落ち着いてくる。
すると今度は、中庭を挟んで向かい側の廊下に、だれかが立っているのに気がついた。
追いかけてきた伊籍かと思ったが、そうではない。
自分と同じくらいの背の高さの男だ。
逆光のためによく顔を見ることができないが、武官装束のようである。
腰に剣を佩いている。
叔父を殺した男も、そんなふうに剣を佩いていたのかな、とぼんやり考えていると、向かい側に立つ男は言った。
「失礼、お尋ねしてもよいだろうか」
深みのある声だが、やはり聞き覚えはない。
冀州のほうの訛りがある。
「どうもこの城には不案内ゆえ、迷ってしまったらしい。
貴殿の立つ廊下の向こうが、劉州牧の居室になるのだろうか」
このひとも、この城で迷子になっているなとおかしくなって、孔明は、すこし笑みを浮かべた。
「いえ、こちらから先は劉公子のお住まいですよ。
劉州牧のいらっしゃるところは、逆です。
いまいらした道を、まっすぐに戻られたほうがいい。
わたしもこの城の者ではないので、その先のことはわかりません。
だれかいるでしょうから、案内を頼まれたらいいでしょう」
「左様か、ではそうさせてもらおう。かたじけない」
「どういたしまして」
武人が背を向けるのをじっと孔明が見守っていると、ぴたりとその男が立ち止まった。
首だけすこし動かして、また尋ねてくる。
「かさねて失礼。貴殿はここで、なにをしておられる」
泣いていたところを見られたのかなと、恥ずかしく思いながらも、孔明は素直に答えていた。
「ぼんやりしておりました。すこし、むかしのことなどを思い出しましたので」
「左様か。不躾な質問を許されよ。
そろそろ日が落ちる。冷えるので、そろそろ部屋なり宿なりに戻られるがよかろう」
親切な人だな、心配してくれているのか。
感心して、孔明は応じた。
「ありがとうございます、そうします」
男は、ちいさくうなずくと、今度は振り返らずに去って行った。
孔明がそのうしろ姿を見送っていると、それとすれ違うようにして、徐庶がこちらに向かってくるのが見えた。
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます!(^^)!
そして、ブログ村およびブログランキングに投票してくださっているみなさまも、感謝です(#^.^#)
さて、本文中の謎の武人は何者か?!
と、煽る必要もなく、すぐにわかりますね;
次回をおたのしみにー。
それと、非常に何度も申し訳ありませんが、「飛鏡」はいったんブログから下げましたので、よろしくでーす。
さーて、続編をどんどん書いて、「飛鏡」のリライト作業に入るぞ!
今日もしっかりやります。
みなさまも、よい一日をお過ごしくださいませ('ω')ノ