※
数日後、徐庶と孔明は、劉表の返事をもらったあと、襄陽城市の宿で夜を迎えた。
こういうときに、亡くなった叔父から多額の遺産を受け継いでいる孔明は、頼りになる。
宿代などは、すべて孔明持ちなのだ。
徐庶とて面子があるから、すこしは払おうとする。
だが、孔明はこういうとき、頑として徐庶の財布を開かせない。
「叔父上は、いつもよい友を得よ、そのためならば、手間も時も金も惜しむなとおっしゃっていた。
徐兄は、わたしにとっては最良の友なのだから、わたしがもてなすのは当たり前だ。
だから、金はわたしがすべて払う」
というのが孔明の理屈である。
孔明のなかで、叔父という人物は、だいぶ美化されているようだ。
もちろん、徐庶は孔明の叔父という諸葛玄のことを見聞でしか知らない。
だが、割り引いて見ても、孔明には、たいへんに立派なところを見せた男だったようだ。
『こいつの財貨を惜しまないところは、美点のひとつだな』
そんなことを思いながら、徐庶はありがたくおごられることにした。
混んでいたので相部屋になった。
雑魚寝をして、闇のなか、ふたりはしばらく大人しく目をつむっていた。
しかし、寝たふりをしているだけで、孔明がほんとうに眠っていないのは、気配でわかった。
徐庶もまた、仕官についての考えがまとまらず、興奮して眠れなかった。
闇になれた目で、なじみのない天井の柱のかたちをじっくりながめていると、闇の向こうから、孔明が語りかけてきた。
「起きているかい」
「ああ、おまえも眠れないのか」
「いま話してもいいだろうか」
「かまわないさ。仕官のことか」
目だけを動かして、孔明の横たわる寝台のほうを見るが、その身体と闇を区切る輪郭がわかるだけで、ほかは黒に包まれて、何も見えない。
「それもあるけれど、いままで、はっきり聞いてこなかったなと思い出してね。
徐兄は、なぜ仕官をしたいのかな」
「そりゃおまえ、単純な話さ。食べていかなくちゃいけないからな」
「そうか、そうだよね」
孔明は、方向のつかめない闇の向こうから応じる。
明かりのない漆黒の闇のなかにいる徐庶は、自分が暗い水面のうえにぷかりと浮かんでいるような錯覚をおぼえた。
孔明の声が、どこか遠くから聞こえるように感じる。
実際には、そう距離はないはずなのだが。
しばしの沈黙のあと、孔明がまた言った。
「そうではない、気を悪くしないでほしい。
そういうことを言いたいのではなくて」
孔明らしからぬことに、言葉が見つからずに、自分で自分にいらだっているのがわかる。
またしばらく次の言葉を待っていると、孔明はとうとう落ち着かなくなった様子で、身体を起こしたのが、音と気配でわかった。
「素直に言うよ。いま、わたしは焦っているのだと思う。
自分がこの先どうしたらよいのか、わからない」
「将来は国を再興し、宰相になる、とか言っていただろう」
「たしかに言った。でも、どこで、だれと組んで漢王朝を再興すればよい?
帝を擁している曹操とは絶対に組みたくない。
あれはわたしの故郷を踏みにじった男だ。わたしの仇だよ。
そうなると、曹操以外の男に仕えることになるだろうが、いまのところ、仕えたいと思えるような人物は、だれも見当たらない」
おやおや、いつものこいつの強気な俺様節が始まったな、と徐庶は思った。
だが、その夜は、いつもならばつづく孔明の天下談義が、なかなかはじまらなかった。
どうしたのかな、飽きて、寝ちまったのかなと思いながらも待っていると、やがて、孔明の、ふしぎと苦しそうな声がつづいた。
「と、いうのは嘘だ」
「なんだ、いきなり。今日は弱気じゃないか」
「わたしはいつも弱気で、不安だよ。不安で仕方がないけれど、それを悟られたくないから、隠しているのだ。
思えば、わたしを評価してくれる人はとても少ないし、もちろん友人も少ないし」
「少ないなりに、それなりの人脈はあるじゃないか」
「そうだけれど…知っているだろう、人から触れられると体が固まってしまう癖。
こいつのせいで、どうもいまもって人と対面するときに極度に緊張してしまう。
こんなふうに、人というものとまともに付き合うことができない人間が、ほんとうに人の上に立てるものなのだろうか。
いや、人の中に入って、やっていくことができるものなのかな」
徐庶は横になったまま、孔明の告白を聞いていた。
徐庶からすれば、孔明などは、自分などよりよほど若い。
そのうえ往来を歩いても振り向かない人がないほど目立つ風貌をしているし、弁もたつし、遺産はあるし、家名もよいし、やや性格に偏りが見られるが、気立てはいいやつで、いまだ仕官しないのは、単に理想が高いからだと思っていた。
やがて、世間を見る目がもっと慣れてくれば、いい仕官先が見つかるだろうと徐庶は踏んでいた。
だが、叔父が暗殺される現場を目の当たりにしてしまって以来の、人から触れられることを恐れる癖というものは、孔明にとって、大きな障害になっているようだった。
つづく
数日後、徐庶と孔明は、劉表の返事をもらったあと、襄陽城市の宿で夜を迎えた。
こういうときに、亡くなった叔父から多額の遺産を受け継いでいる孔明は、頼りになる。
宿代などは、すべて孔明持ちなのだ。
徐庶とて面子があるから、すこしは払おうとする。
だが、孔明はこういうとき、頑として徐庶の財布を開かせない。
「叔父上は、いつもよい友を得よ、そのためならば、手間も時も金も惜しむなとおっしゃっていた。
徐兄は、わたしにとっては最良の友なのだから、わたしがもてなすのは当たり前だ。
だから、金はわたしがすべて払う」
というのが孔明の理屈である。
孔明のなかで、叔父という人物は、だいぶ美化されているようだ。
もちろん、徐庶は孔明の叔父という諸葛玄のことを見聞でしか知らない。
だが、割り引いて見ても、孔明には、たいへんに立派なところを見せた男だったようだ。
『こいつの財貨を惜しまないところは、美点のひとつだな』
そんなことを思いながら、徐庶はありがたくおごられることにした。
混んでいたので相部屋になった。
雑魚寝をして、闇のなか、ふたりはしばらく大人しく目をつむっていた。
しかし、寝たふりをしているだけで、孔明がほんとうに眠っていないのは、気配でわかった。
徐庶もまた、仕官についての考えがまとまらず、興奮して眠れなかった。
闇になれた目で、なじみのない天井の柱のかたちをじっくりながめていると、闇の向こうから、孔明が語りかけてきた。
「起きているかい」
「ああ、おまえも眠れないのか」
「いま話してもいいだろうか」
「かまわないさ。仕官のことか」
目だけを動かして、孔明の横たわる寝台のほうを見るが、その身体と闇を区切る輪郭がわかるだけで、ほかは黒に包まれて、何も見えない。
「それもあるけれど、いままで、はっきり聞いてこなかったなと思い出してね。
徐兄は、なぜ仕官をしたいのかな」
「そりゃおまえ、単純な話さ。食べていかなくちゃいけないからな」
「そうか、そうだよね」
孔明は、方向のつかめない闇の向こうから応じる。
明かりのない漆黒の闇のなかにいる徐庶は、自分が暗い水面のうえにぷかりと浮かんでいるような錯覚をおぼえた。
孔明の声が、どこか遠くから聞こえるように感じる。
実際には、そう距離はないはずなのだが。
しばしの沈黙のあと、孔明がまた言った。
「そうではない、気を悪くしないでほしい。
そういうことを言いたいのではなくて」
孔明らしからぬことに、言葉が見つからずに、自分で自分にいらだっているのがわかる。
またしばらく次の言葉を待っていると、孔明はとうとう落ち着かなくなった様子で、身体を起こしたのが、音と気配でわかった。
「素直に言うよ。いま、わたしは焦っているのだと思う。
自分がこの先どうしたらよいのか、わからない」
「将来は国を再興し、宰相になる、とか言っていただろう」
「たしかに言った。でも、どこで、だれと組んで漢王朝を再興すればよい?
帝を擁している曹操とは絶対に組みたくない。
あれはわたしの故郷を踏みにじった男だ。わたしの仇だよ。
そうなると、曹操以外の男に仕えることになるだろうが、いまのところ、仕えたいと思えるような人物は、だれも見当たらない」
おやおや、いつものこいつの強気な俺様節が始まったな、と徐庶は思った。
だが、その夜は、いつもならばつづく孔明の天下談義が、なかなかはじまらなかった。
どうしたのかな、飽きて、寝ちまったのかなと思いながらも待っていると、やがて、孔明の、ふしぎと苦しそうな声がつづいた。
「と、いうのは嘘だ」
「なんだ、いきなり。今日は弱気じゃないか」
「わたしはいつも弱気で、不安だよ。不安で仕方がないけれど、それを悟られたくないから、隠しているのだ。
思えば、わたしを評価してくれる人はとても少ないし、もちろん友人も少ないし」
「少ないなりに、それなりの人脈はあるじゃないか」
「そうだけれど…知っているだろう、人から触れられると体が固まってしまう癖。
こいつのせいで、どうもいまもって人と対面するときに極度に緊張してしまう。
こんなふうに、人というものとまともに付き合うことができない人間が、ほんとうに人の上に立てるものなのだろうか。
いや、人の中に入って、やっていくことができるものなのかな」
徐庶は横になったまま、孔明の告白を聞いていた。
徐庶からすれば、孔明などは、自分などよりよほど若い。
そのうえ往来を歩いても振り向かない人がないほど目立つ風貌をしているし、弁もたつし、遺産はあるし、家名もよいし、やや性格に偏りが見られるが、気立てはいいやつで、いまだ仕官しないのは、単に理想が高いからだと思っていた。
やがて、世間を見る目がもっと慣れてくれば、いい仕官先が見つかるだろうと徐庶は踏んでいた。
だが、叔父が暗殺される現場を目の当たりにしてしまって以来の、人から触れられることを恐れる癖というものは、孔明にとって、大きな障害になっているようだった。
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます!(^^)!
そして、ブログ村およびブログランキングに投票してくださっているみなさまも、大感謝です、とーっても励みになっております(*^▽^*)
この「空が高すぎる」、まだまだ練れた部分もあったかなと、いま掲載するのにあわせて再読しながら思っていますが…これでよかったのかな、と思う面もあり。
あと一週間ほどでこの番外編は終わるかと思います。
そのあと、いよいよ続編の連載を開始いたしますよー。
いろんなキャラクターが出てくる、臥龍的陣とは趣の違う話になります。
どうぞおたのしみにー(と、またハードルを上げる)
ではでは、今日もよい一日をお過ごしくださいませ('ω')ノ