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さきほどの武人と徐庶は、廊下で行き交う形となった。
徐庶は、自分とは真逆の方向へ行く武人に興味が引かれたものか、ちらりとそちらに顔を向けた。
武人のほうは徐庶の目線を気にしない様子で、軽く会釈をしただけで、そのまま立ち去っていく。
そのきびきびした颯爽とした歩き方は、いかにも武芸に秀でた男というふうだ。
からだの動きにいっさいの無駄がない。
武人の背中が遠ざかると同時に、徐庶が近づいてきた。
「こんなところにいたのか、探したぞ。
州平は帰ってしまったというし」
「帰ったというのはひどいな。
徐兄を置いていくなんて、無責任じゃないか」
崔州平は、律儀で真面目な性格なのだが、ときどき、戸惑うほどに気まぐれな振る舞いをすることがある。
孔明や徐庶にはわからない、崔州平だけが感じる『不快さ』が原因らしい。
だが、たとえ状況が落ち着いたあとでも、崔州平は、けっして具体的になにが不快なのかの理由をいわない。
そのため、孔明たちが戸惑うばかりで終わり、原因をつかむことができないことがたまにあった。
『また気まぐれが起こったのだな、あれも一児の父親になったというのに、そういうところは直らないのだな』
孔明があきれていると、近づいてきた徐庶は、心配そうに眉根を寄せて、孔明の顔を覗き込んできた。
「どうした、おまえ、泣いているのか」
たとえ喧嘩で一方的に殴られようと、罵詈雑言を浴びせられようと、孔明が人前で涙をこぼすことは稀《まれ》だった。
その意地っ張りが、あきらかに泣いていたのだとわかる様子で、人気のない城の一角にいたのだから、おどろかれるのも無理はないだろう。
徐庶は、廊下ですれ違った武人を振り返る。
「もしかして、いまの男と喧嘩でもしたのか」
どうやら徐庶は、孔明がだれかれかまわず喧嘩をするものと思っているらしい。
わたしの日ごろの素行の悪さが、そのまま反映されている言葉だなと孔明は苦笑した。
「ちがうよ。あの人はわたしに劉州牧の部屋の位置を聞いてきただけだ。
涙が出ていたのは、照り返しがまぶしくて、目が疲れただけだよ」
徐庶が心配するとわかっていたので、叔父のことを思い出したとは言えなかった。
だが、誤魔化しきれなかったようで、徐庶が、ほんとうかと問うように、器用に片方の眉だけを上げる。
無言の問いかけに苦りつつ、孔明はつづけた。
「ほんとうだよ。おどろかせてすまなかった。
そちらの首尾のほうはどうだ」
徐庶の顔は、とたんにかたいものに変わった。
肩をそびやかし、短く声を出して乾いた笑い声をたてる。
こういう笑い方をするときは、よくなかったということだと、孔明は知っている。
「もともと仕官するつもりはなかったが、あれは駄目だ」
「仕官するつもりはない?
どうして途中で変わったのだ? 州平になにか言われたのか」
孔明が詰め寄ると、徐庶は、やめろ、というふうに手を振って、答えた。
「そうではない。なんというかな、おまえの想像どおりだ。
もしかしたら、間がわるかったのかもしれないが」
「間って? 劉州牧は、具合でも悪くしていたのか」
「いいや、元気だった。とりあえず、歩きながら話そう。
なるべく早く、この城から出たい」
徐庶にうながされるようなかたちで、孔明は徐庶と肩を並べて歩き出した。
陽も翳《かげ》ってきたので、あちこちで、蝋燭を手に、城中の明かりをつける係の女官たちが廊下を移動している。
粛々とした動きは、なかなか幻想的で、女たちの衣裳のうすい絹の巾領が、まるで大きな蛍の羽根のように見えた。
「きれいなものだな。けれど、あこがれない。
もうちょっと泥臭いほうが好みだ」
徐庶が、じつにらしいことを言うので、孔明は、やっとほっとして、笑った。
「間がわるかったって、どういうこと」
「さあて、今日は昼に、ちょっとした宴があったそうなのだ。
いま、荊州の最北の城に、劉豫州とその家来がいることは知っているだろう。
劉豫州は、わかるな?
袁紹のところから流れてきて、同姓だからというので、劉州牧に、食わせてくれと頭を下げてきた御仁だ。
いまは新野に駐在しているとか」
「劉備といったかな。名前だけは知っているよ。いつも負けている人だな。
けれど、ふしぎと評判はいい」
「そう。いわゆる識者といわれる連中からの評価は辛いが、世論からは好かれている男だ。
その劉豫州が、家来と一緒に、劉州牧のところへ挨拶に来ていた」
「会ったのかい」
「いいや。しかし、さっきすれ違った男、あいつがその家来ではないかと思うのだが、そいつがひと騒動起こしたのさ。
はじまりはこうだ。
宴のときに、劉州牧が更衣のために席を外したそうなのだ。
で、そのあいだ、文官たちが、近頃亡くなった同僚の葬儀の仕方について、あれこれと論議をはじめた。
話の流れか、それとも酔っていたのか、そのなかのひとりが、劉豫州の家来を、無学の徒と決め付けて、ずいぶん無礼なことを口にしたらしい。
儀礼(ぎらい・五経典のひとつ。冠婚葬祭の礼儀作法をまとめた書)なんぞ、読んだことすらなかろうと、そんなことを言ったようなのだ」
「うん」
「そうしたらば、おどろいたことに、武人だというその男は、すっくと立ち上がると、自分がむかし習った知識がまちがっているといけないから、儀礼のすべてをこれから暗誦するので、確認していただきたいと言い放った」
「へえ、負けず嫌いだな」
「文官どもは、みな、武人が腹をたてて、勢いで口にしたことだろうと思って、これはよい肴になると、最初は喜んでいたそうなのだが、劉豫州の家来は、そんな空気はものともせず、儀礼《ぎらい》を完璧に暗誦してみせたそうだ」
「すごいな。でも、それは悪手だな」
言い放つ孔明に、徐庶は足を止めると、その高い鼻梁をつまんで、からかいながら言った。
「また始まったか、『暗誦をするなんて時間の無駄、内容だけを掴めばよい』が」
孔明もまた、徐庶の悪ふざけに、笑いながら手をふりほどいて、答える。
「そうではないよ。悪手と言ったのは、そんなくだらない挑発をしたほうもしたほうだし、それにまんまと乗っかって、わざわざ知識を披露してみせたほうも、どうかしているという意味だ。
その家来とやらは、挑発されても、黙っているべきだった。
儀礼《ぎらい》のぜんぶを暗誦して見せれば、相手をやりこめられると思ったのだろうけれど、ただ襄陽城の文官のなかに、敵を増やしただけじゃなかろうか。
それは主君の身も危うくさせることだろうに」
つづく
徐庶は、自分とは真逆の方向へ行く武人に興味が引かれたものか、ちらりとそちらに顔を向けた。
武人のほうは徐庶の目線を気にしない様子で、軽く会釈をしただけで、そのまま立ち去っていく。
そのきびきびした颯爽とした歩き方は、いかにも武芸に秀でた男というふうだ。
からだの動きにいっさいの無駄がない。
武人の背中が遠ざかると同時に、徐庶が近づいてきた。
「こんなところにいたのか、探したぞ。
州平は帰ってしまったというし」
「帰ったというのはひどいな。
徐兄を置いていくなんて、無責任じゃないか」
崔州平は、律儀で真面目な性格なのだが、ときどき、戸惑うほどに気まぐれな振る舞いをすることがある。
孔明や徐庶にはわからない、崔州平だけが感じる『不快さ』が原因らしい。
だが、たとえ状況が落ち着いたあとでも、崔州平は、けっして具体的になにが不快なのかの理由をいわない。
そのため、孔明たちが戸惑うばかりで終わり、原因をつかむことができないことがたまにあった。
『また気まぐれが起こったのだな、あれも一児の父親になったというのに、そういうところは直らないのだな』
孔明があきれていると、近づいてきた徐庶は、心配そうに眉根を寄せて、孔明の顔を覗き込んできた。
「どうした、おまえ、泣いているのか」
たとえ喧嘩で一方的に殴られようと、罵詈雑言を浴びせられようと、孔明が人前で涙をこぼすことは稀《まれ》だった。
その意地っ張りが、あきらかに泣いていたのだとわかる様子で、人気のない城の一角にいたのだから、おどろかれるのも無理はないだろう。
徐庶は、廊下ですれ違った武人を振り返る。
「もしかして、いまの男と喧嘩でもしたのか」
どうやら徐庶は、孔明がだれかれかまわず喧嘩をするものと思っているらしい。
わたしの日ごろの素行の悪さが、そのまま反映されている言葉だなと孔明は苦笑した。
「ちがうよ。あの人はわたしに劉州牧の部屋の位置を聞いてきただけだ。
涙が出ていたのは、照り返しがまぶしくて、目が疲れただけだよ」
徐庶が心配するとわかっていたので、叔父のことを思い出したとは言えなかった。
だが、誤魔化しきれなかったようで、徐庶が、ほんとうかと問うように、器用に片方の眉だけを上げる。
無言の問いかけに苦りつつ、孔明はつづけた。
「ほんとうだよ。おどろかせてすまなかった。
そちらの首尾のほうはどうだ」
徐庶の顔は、とたんにかたいものに変わった。
肩をそびやかし、短く声を出して乾いた笑い声をたてる。
こういう笑い方をするときは、よくなかったということだと、孔明は知っている。
「もともと仕官するつもりはなかったが、あれは駄目だ」
「仕官するつもりはない?
どうして途中で変わったのだ? 州平になにか言われたのか」
孔明が詰め寄ると、徐庶は、やめろ、というふうに手を振って、答えた。
「そうではない。なんというかな、おまえの想像どおりだ。
もしかしたら、間がわるかったのかもしれないが」
「間って? 劉州牧は、具合でも悪くしていたのか」
「いいや、元気だった。とりあえず、歩きながら話そう。
なるべく早く、この城から出たい」
徐庶にうながされるようなかたちで、孔明は徐庶と肩を並べて歩き出した。
陽も翳《かげ》ってきたので、あちこちで、蝋燭を手に、城中の明かりをつける係の女官たちが廊下を移動している。
粛々とした動きは、なかなか幻想的で、女たちの衣裳のうすい絹の巾領が、まるで大きな蛍の羽根のように見えた。
「きれいなものだな。けれど、あこがれない。
もうちょっと泥臭いほうが好みだ」
徐庶が、じつにらしいことを言うので、孔明は、やっとほっとして、笑った。
「間がわるかったって、どういうこと」
「さあて、今日は昼に、ちょっとした宴があったそうなのだ。
いま、荊州の最北の城に、劉豫州とその家来がいることは知っているだろう。
劉豫州は、わかるな?
袁紹のところから流れてきて、同姓だからというので、劉州牧に、食わせてくれと頭を下げてきた御仁だ。
いまは新野に駐在しているとか」
「劉備といったかな。名前だけは知っているよ。いつも負けている人だな。
けれど、ふしぎと評判はいい」
「そう。いわゆる識者といわれる連中からの評価は辛いが、世論からは好かれている男だ。
その劉豫州が、家来と一緒に、劉州牧のところへ挨拶に来ていた」
「会ったのかい」
「いいや。しかし、さっきすれ違った男、あいつがその家来ではないかと思うのだが、そいつがひと騒動起こしたのさ。
はじまりはこうだ。
宴のときに、劉州牧が更衣のために席を外したそうなのだ。
で、そのあいだ、文官たちが、近頃亡くなった同僚の葬儀の仕方について、あれこれと論議をはじめた。
話の流れか、それとも酔っていたのか、そのなかのひとりが、劉豫州の家来を、無学の徒と決め付けて、ずいぶん無礼なことを口にしたらしい。
儀礼(ぎらい・五経典のひとつ。冠婚葬祭の礼儀作法をまとめた書)なんぞ、読んだことすらなかろうと、そんなことを言ったようなのだ」
「うん」
「そうしたらば、おどろいたことに、武人だというその男は、すっくと立ち上がると、自分がむかし習った知識がまちがっているといけないから、儀礼のすべてをこれから暗誦するので、確認していただきたいと言い放った」
「へえ、負けず嫌いだな」
「文官どもは、みな、武人が腹をたてて、勢いで口にしたことだろうと思って、これはよい肴になると、最初は喜んでいたそうなのだが、劉豫州の家来は、そんな空気はものともせず、儀礼《ぎらい》を完璧に暗誦してみせたそうだ」
「すごいな。でも、それは悪手だな」
言い放つ孔明に、徐庶は足を止めると、その高い鼻梁をつまんで、からかいながら言った。
「また始まったか、『暗誦をするなんて時間の無駄、内容だけを掴めばよい』が」
孔明もまた、徐庶の悪ふざけに、笑いながら手をふりほどいて、答える。
「そうではないよ。悪手と言ったのは、そんなくだらない挑発をしたほうもしたほうだし、それにまんまと乗っかって、わざわざ知識を披露してみせたほうも、どうかしているという意味だ。
その家来とやらは、挑発されても、黙っているべきだった。
儀礼《ぎらい》のぜんぶを暗誦して見せれば、相手をやりこめられると思ったのだろうけれど、ただ襄陽城の文官のなかに、敵を増やしただけじゃなかろうか。
それは主君の身も危うくさせることだろうに」
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます(*^▽^*)
そして、ブログ村およびブログランキングに投票してくださっているみなさまも、大感謝です!(^^)!
「空が高すぎる」、こんなに長い話だったかなあと掲載しながら思っています。
事件のおこらない、単調なお話ではありますが、愛着のある話でもあります。
どうぞ最後までお付き合いください(^^♪
ところで次回の続編の更新頻度は、3回くらいにしようかと思っています。
あんまり間をあけてしまうと、「なろう」「カクヨム」は完全に埋もれてしまうし、みなさんも探しづらくなりますよね?
ブックマークしていただけると嬉しいんですが、もちろん、そうではなく探しやすくしておく、というのもアリかなと思いまして。
もっというと、忘れられちゃうと悲しいなあという気持ちもあります。
なるべく更新頻度を高められるよう、原稿もせっせと作っていきます。
ではでは、今日もよい一日をお過ごしくださいませ('ω')ノ