帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二百九十三〕大納言殿まいり給て

2012-02-01 00:10:31 | 古典

  



                                  帯とけの枕草子〔二百九十三〕
大納言殿まいり給て



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔二百九十三〕
大納言殿まいり給て

 
 大納言殿(宮の兄君、伊周)が参上されて、ふみのことなど(漢詩文について)、申し上げられるときに、いつものように、夜も更けたので、御前の人々(女房たち)は一人二人づつきえて、御屏風、御几帳の後ろなどにみな隠れて横になったので、ただ一人、眠たいのを我慢してお側に控えていると、「うしよつ(丑四つ・御前三時、四時ごろ)」と時を奏すのがきこえる。「あけ侍ぬなり(明けました…終わりました)」と独り言をいうと、大納言殿「いまさらに、おほとのごもりおはしましそ(いまさら、お寝みなさいますな)」と申されたのを、寝ようとも思っていないので、いやだわ、何でそんなこと申されたのであろう思うけれども、やはり、ほかに人々が居れば人に紛れて寝ていたでしょう。

主上が柱に寄り掛かられて、少し眠っておられるので、「かれ、みたてまつらせ給へ。いまはあけぬるに、かうおほとのごもるべきかは(かれご覧なさいませ、今は明けたのに、このようにおやすみあそばすべきでしょうか)」と、(大納言が)申しあげられると、「げに(そうね)」などと、宮はお笑いになって応えていらっしゃるも、(主上には)お知らせなさらないうちに、下仕え女のもとにいる童子が鶏を捕らえて持って来て「明朝、里へ持って行こう」といって隠して置いたのが、どうしたのか、犬が見つけて追いかけたので、廊の上の間木に逃げ入って、おそろしく鳴き騒いだために、人々は起きてしまったようである。

主上も、はっとお驚き目を覚まされて、どうして居た鶏なのかといったことを、お尋ねになられるとき、大納言殿が、「こゑ、めいわうのねぶりをおどろかす(鳥人暁を唱す・声、明王の眠りを覚ます)」ということを、高らかに朗詠される。めでたうをかしきに(愛でたくて趣があるので)、ただ人(只の人…私のような普通の人)の眠たかった目もぱっちりと大きくなった。まったく適切な折りの詩だこと、主上も宮も興じられる。やはりこういったことは、めでたけれ(すばらしいことよ)。

 

次の日の夜は、宮が夜の御殿の間(清涼殿)に参上された。夜中に廊に出て人を呼んでいると、(大納言殿が)「おるゝか、いでをくらん(下がるのか、さあ送ろう)」とおっしるので、裳、唐衣は屏風にうち掛けて行く、時に月がとっても明るく、(大納言殿の)御直衣がたいそう白く見えるとき、指貫を長くして踏み撥ねながら歩み、(私の)衣の袖をひっぱって、「たうるな(倒れるな…手折るな)」とおっしゃるやいなや、「ゆうし、猶のこりの月に行(旅人なおも明け方の月の時に行く…遊子なおも残りのつきにゆく)」と、おうたいになる。又いみじうめでたし(またとってもすばらしい…股とっても愛でたい)。「かやうの事めで給(こんなことを、愛でられる)」と言ってお笑いになるけれども、いかでか猶おかしきものをば(どうしてか、やはりおもしろいものはおもしろいよ)。


 「あけ…(夜)明け…期限がくる…終わる」「鶏…鳥…言の心は女」「なき…鳴き…泣き」「そで…袖…端…身の端」


 和漢朗詠集 巻下 禁中

 鶏人暁唱、声驚明王之眠

(時刻を知らせる役人、暁と唱える声、明王の眠りをさます……女人あかつきに唱、声、明王の眠りをさます)。


 「鶏…鳥…女」「唱…となえる…うたう…先だって声をあげる」「明王…明君…聡明な帝」「驚…驚眠…眠りを驚かす…目を覚まさせる」。


 和漢朗詠集 巻下  

 遊子猶行残月、函谷鶏鳴

(旅人なお残月に行く、函谷関に鶏が鳴く……子の君、直もゆく、残りのつき、関門に、歓を告げてとりが泣く)。


 「遊子…旅人…戯れ交わる子の君…おとこ」「猶行…なおもゆく…さらにゆく…ためらいつつ逝く」「残月…朝方に空に残る月…朝方なおも残るつき人をとこ…有明のつきに同じ」「函谷…関所、鶏鳴すれば開門する…歓告…歓喜を告げる」「鶏…鳥…女」。


 改めて言うまでもなく「同じ言なれども、聞き耳異なるもの、男の言葉、女の言葉」。字義以外への戯れぶりに、男の言葉と女の言葉に、相通じるところがある。

 詩句を上のように、聞くことができれば、「めでたうおかしきに」、「めでたけれ」、「いみじうめでたし」や「いかでか猶おかしきものをば」といった言葉に共感できそうでしょう。
 詩句を字義の通り読んでいたのでは、ただ「清げな姿」を見せられているだけだから、「何が愛でたいの、適時な詩句を朗詠したからか? 何がおかしいの?」と言いたくなる。まして、大納言の笑うのと共に笑えるだろうか、笑えない。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)

 
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。