帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子(拾遺十三)硯の箱は

2012-02-22 00:49:08 | 古典

  



                                 帯とけの枕草子(拾遺十三)硯の箱は



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、この時代の人々と全く異なる言語感で読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子(拾遺十三)すゞりのはこは


 文の清げな姿

 硯の箱は、重ねの蒔絵に雲鳥の紋。


 原文

 すゞりのはこは、かさねのまきゑに雲鳥のもん。


 心におかしきところ

 す擦りの端こは重ねの真木枝に、心雲たつ、女の門。


 言の戯れと言の心

 「す…女…洲…おんな」「はこ…箱…端子…身の端」「かさね…重ねて…三重ならなお愛でたい」「まきゑ…ま木枝…真のおとこ」「枝…身の枝…おとこ」「雲鳥…雲居の鳥…心に雲立つ女」「雲…煩わしいばかりに心に湧き立つもの…情欲など」「鳥…言の心は女」「もん…紋…紋様…門…おんな」。



 雲や鳥などの「言の心」は、古代人の共有した思いである。万葉集の歌を読みましょう。

 巻第十 春相聞 寄雲

 白檀弓いま春山に去る雲の 逝や別れむ恋しきものを


 夏雑歌 詠鳥

 あひ難き君に逢へる夜ほととぎす 他の時よりは今こそ鳴かめ


 秋雑歌 詠雁

 秋風に山とへ越ゆる雁鳴は いや遠ざかる雲隠りつつ


 秋雑歌 詠鳥

 妹が手を取石の池の浪間より 鳥音異に鳴く秋過ぎぬらし


 歌は、それぞれ「清げな姿」をしている。それは字義をたどればおおよそわかる。それに憶見を加えることが解釈ではない。次のような「心におかしきところ」を感じることができれば、歌は解ける。


(……白けた真弓、いま春の山ばに去る雲のように、逝くのね、別れでしょう、恋しいものを)。


(……合い難き君に合える夜、ほと伽す、他の時よりは、今こそ泣くでしょう)。


(……飽き風に山ば辺を越え、かりする女の声は、いや遠ざかる、雲隠れつつ)。


(……愛しい女の手を、取り居し逝けの浪間より、とりの声、異に泣く、飽き過ぎたらしい)。


 このように聞くには、「雲…情欲」「鳥…女」の「言の心」の他に、「白…色の果て」「弓…おとこ」「相…逢…合…和合」「ほととぎす…鳥…女…ほと伽す」「秋…飽き満ち足り」「山…山ば」「雁…鳥…女…かりとり…めとり」「池…逝け」「浪…心波」などの、言の戯れや言の心を心得なければならない。


 このようなことは、江戸時代の大真面目な学者や歌人たちには見向きもされなかった。近代人の論理的思考によって排除される事柄でしょう。歌の解釈が国文学という名に学問と成った現代ではなおのこと、許容されない事柄である。かくして、残念ながら、「古今伝授」などに埋もれてより、数百年も「和歌」の真髄は埋もれ木となり続け、「枕草子」も清げな姿しか見えなくなった。


 少なくとも言葉という代物だけは、人の論理的な思考に適うものではないと知って、ひとたび、そのような思考を脱して、古代人の作り上げた「言の戯れと言の心」の世界に飛び込めば、伝統ある「和歌」や「枕草子」の「心におかしきところ」や、有るかも知れない「深き心」を、観じることができるでしょう。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)

 原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。