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帯とけの枕草子〔二百九十七〕びんなき所にて
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないままに読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言枕草子〔二百九十七〕びんなき所にて
文と歌の清げな姿
「都合の悪い所で、人にものを言っていたら胸がひどくどきどきしたのよ、どうしてこうなの」と言った人(若い女)に、
あふ坂は胸のみ常にはしり井の 見つくる人やあらんと思へば
(逢びき坂は、胸ばかりが常に、走り井のように、わくわくどきどき、見付ける人がいるかもしれないと思うからよ)。
原文
びんなき所にて、人に物をいひける、むねのいみじうはしりけるを、などかくあるといひける人に、
あふさかはむねのみつねにはしりゐの 見つくる人やあらんと思へば
心におかしきところ
「都合の悪い所で、彼と情けを交わしていた、む根がひどく急いだことよ、どうしてこうなの」と言った人(若い女)に、
あふ坂はむねのみ常に走り井の 見尽くる人やあらんと思へば
(合坂の山ばは、む根の身、常に先走る、わくわくする井が、見尽きる男ではないかしらと思うからよ)。
言の戯れと言の心
「物をいう…言葉を交わす…情けを交わす」「むね…胸…む根…武根…矛根…おとこ」「はしりける…わくわくした…急ぐことよ…先走ることよ」「あふさか…逢坂…合う坂…男女の感情の山の合致するべき山ば」「はしり井…水が湧き出て流れる井…ほとばしる井…わくわくどきどきする井」「井…おんな」「見つくる…見付ける…見尽きる…合坂なかばで尽きる」「見…覯…媾…まぐあい」。
言の戯れを知り、「井」がおんなであること、「見」がまぐあいであることを、心得る人は、この歌の「心におかしきところ」がわかるでしょう。言の心は、この時代の人々の「思いこみ」であって、理屈で決まるのではない。思いこみは時代とともに消えもする。
古今和歌集の「あふさか」の歌を聞きましょう。ほぼ同じ文脈にある歌。
巻第十一 恋歌一 よみ人しらず
あふさかの関にながるゝ岩清水 いはで心に思ひこそすれ
(逢坂の関に流れでる岩清水、言わずに心に思うからこそよ……合坂の山ばの関にほとばしる岩しみず、声には出さず、心に思火、こぞ擦れ)。
「あふさか…逢坂…相坂…合坂…和合の山坂」「関…関門…門…女」「岩・水…言の心は女」「し水…清水…清い水…染み出る水…液」「心に思ひこそすれ…心に深く思うからこそよ…心に思い火、子ぞ、擦れ」「子…おとこ」「そ…ぞ…強く指示する意を表す」。
仮名序に「今の世の中(古今集編纂時)、色に尽き、人の心、花になりにけるにより、あだなる(浮かれた)歌、はかなき(儚き)言のみ出で来れば、色好みの家に埋もれ木の、人知れぬこととなりて、まめなる(真面目な)所には、花薄、穂にいだすべきことにもあらずなりにたり」とある。
このよみ人しらずの歌は、見事に清げに包まれてあるけれども、言の戯れを知り言の心を心得る人は、あだなる歌の片鱗が見えるでしょう。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。