帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二百九十七〕びんなき所にて

2012-02-06 00:01:17 | 古典

  



                     帯とけの枕草子〔二百九十七〕びんなき所にて



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないままに読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔二百九十七〕びんなき所にて


 文と歌の清げな姿

 「都合の悪い所で、人にものを言っていたら胸がひどくどきどきしたのよ、どうしてこうなの」と言った人(若い女)に、

 あふ坂は胸のみ常にはしり井の 見つくる人やあらんと思へば

(逢びき坂は、胸ばかりが常に、走り井のように、わくわくどきどき、見付ける人がいるかもしれないと思うからよ)。

 

 原文

 びんなき所にて、人に物をいひける、むねのいみじうはしりけるを、などかくあるといひける人に、

 あふさかはむねのみつねにはしりゐの 見つくる人やあらんと思へば

 

 心におかしきところ

 「都合の悪い所で、彼と情けを交わしていた、む根がひどく急いだことよ、どうしてこうなの」と言った人(若い女)に、

 あふ坂はむねのみ常に走り井の 見尽くる人やあらんと思へば

 (合坂の山ばは、む根の身、常に先走る、わくわくする井が、見尽きる男ではないかしらと思うからよ)。


 言の戯れと言の心

 「物をいう…言葉を交わす…情けを交わす」「むね…胸…む根…武根…矛根…おとこ」「はしりける…わくわくした…急ぐことよ…先走ることよ」「あふさか…逢坂…合う坂…男女の感情の山の合致するべき山ば」「はしり井…水が湧き出て流れる井…ほとばしる井…わくわくどきどきする井」「井…おんな」「見つくる…見付ける…見尽きる…合坂なかばで尽きる」「見…覯…媾…まぐあい」。

 


 言の戯れを知り、「井」がおんなであること、「見」がまぐあいであることを、心得る人は、この歌の「心におかしきところ」がわかるでしょう。言の心は、この時代の人々の「思いこみ」であって、理屈で決まるのではない。思いこみは時代とともに消えもする。
 

 古今和歌集の「あふさか」の歌を聞きましょう。ほぼ同じ文脈にある歌。

 巻第十一  恋歌一 よみ人しらず

 あふさかの関にながるゝ岩清水 いはで心に思ひこそすれ

 (逢坂の関に流れでる岩清水、言わずに心に思うからこそよ……合坂の山ばの関にほとばしる岩しみず、声には出さず、心に思火、こぞ擦れ)。


 「あふさか…逢坂…相坂…合坂…和合の山坂」「関…関門…門…女」「岩・水…言の心は女」「し水…清水…清い水…染み出る水…液」「心に思ひこそすれ…心に深く思うからこそよ…心に思い火、子ぞ、擦れ」「子…おとこ」「そ…ぞ…強く指示する意を表す」。


 仮名序に「今の世の中(古今集編纂時)、色に尽き、人の心、花になりにけるにより、あだなる(浮かれた)歌、はかなき(儚き)言のみ出で来れば、色好みの家に埋もれ木の、人知れぬこととなりて、まめなる(真面目な)所には、花薄、穂にいだすべきことにもあらずなりにたり」とある。

 このよみ人しらずの歌は、見事に清げに包まれてあるけれども、言の戯れを知り言の心を心得る人は、あだなる歌の片鱗が見えるでしょう。


 
伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)

 
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。