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帯とけの枕草子(拾遺十八)鏡は
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、この時代の人々と全く異なる言語感で読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」だけである。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言枕草子(拾遺十八)かゞみは
文の清げな姿
鏡は八寸五分。
原文
かゞみは八寸五ふん。
心におかしきところ
彼が身は八寸五分。
言の戯れと言の心
「かゞみ…鏡…彼が身…彼の身のもの」「八寸五分…約二十六㌢…鏡の直径…屈む身ではなく増す彼が身の丈か」。
「かゞみ」を鏡と決めつける根拠は何もない。「屈み」「屈む身」「彼が身」「彼が見」などと戯れるので、次のような歌が成り立っている。
古今和歌集 巻第十七 雑歌上
鏡山いざたちよりて見てゆかむ 年へぬる身はおいやしぬると
この歌は或る人の曰く大伴黒主が也。
(近江の鏡山を、さあ立ち寄って見てゆこう、年経た身は老いたかどうかなと……彼が身の山ば、いざ立ち撚りいれて見てゆこう、疾し経た身は、感極まり死ねるかなと)。
言の戯れと言の心
「鏡…屈み…彼が身…おとこ」「山…ものの山ば」「よりて…寄りて…撚りて…撚りいれて…気張って」「見…覯…覯…まぐあい」「年…とし…疾し…早すぎ」「おい…老い…極まり…感の極み」。
「歌言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕わる」と藤原俊成はいう。この顕れた「心におかしきところ」を感じ取れば、古今和歌集序にある黒主批判もよくわかるでしょう。「大伴の黒主は、その(歌の)さま卑し。言はば、たきぎ(薪…多気木)負える山人の、花の陰に休めるが如し」とある。
上のような歌に育まれてきたおとなの女たちのための諧謔とすると、「かがみは八寸五分」は、心におかしいでしょう。
「見れば、さぞ、おいや死ぬらむ」と誰かが言えば、笑いとなって、笑い奉仕は成功でしょう
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。