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帯とけの新撰和歌集
紀貫之の云う「歌の様」を知らず「言の心」を心得ないで、近世以来、解き明かされてきたのは歌の清げな姿のみ。歌の「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解け、生々しい人の心が「浮言綺語の戯れのような歌言葉のうちに顕れ」、貫之の云う通り「絶艶の草」と実感できるでしょう。
紀貫之 新撰和歌集 巻第一 春秋 百二十首(三十一と三十二)
春日野の若菜つみにやしろたへの そでふりはへて人のゆくらん
(三十一)
(春日野の若菜摘みにかな、白妙の袖を振り映えて人が行くようだ……かすか野の若なつみでかな、白絶えの端ふり延て、男が逝くようだ)。
言の戯れと言の心
「かすがの…春日野…所の名…春に若菜摘み小松引く野…春に男女交歓する野」「かすか…微か…わずか」「野…山ばではないところ」「若菜摘み…若女つみ」「菜…草…女」「つみ…摘み…採り…めとり」「に…場所を表す…原因理由を表す」「しろたへ…白妙…白絶え」「そで…衣の袖…端…身の端…おとこ」「ふりはへ…振り映え…振り栄え…ふり延え…古りのび…古りばて」「ゆく…行く…逝く」「らん…らむ…原因などを推量する意を表す…事実を推量の形で婉曲に述べる」。
秋の野にみちもまどひぬ松虫の こゑするかたにやどやからまし
(三十二)
(秋の野で道にも迷うた、松虫の声する方に、宿でも借りればいいか……飽きのひら野で、ゆくべき路も惑うてしまった、待つむしの声する方に、や門かりしたものだろうか)。
「秋…飽き…厭き」「野…ひら野…山ばではない」「みち…道…路…山ばへ向かう道」「まつ…松…待つ…女」「むし…虫…身の虫」「やど…宿…家…女…やと…屋門…女」「かる…借る…狩る…刈る…めとる…まぐあう」「まし…すればよい(適当の意を表す)…したものだろうか(戸惑いを表す)」。
近代人には、両歌の「清げな姿」しか見えなくなったので、当然のことながら、くだらぬ歌、怠惰な歌でしかないでしょう。古歌の「歌のさま」を見失ったまま、近代の歌の様式を適用して古歌を聞いているためである。
藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、歌のさま(歌の様式)を、歌は「心」「姿」「心におかしきところ」の三つの意味があると捉えた。そして「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりというべし」と定義した。
ここに抽出された歌は、心深いかどうかは知らないけれど、「清げな姿」のうちに「心におかしきところ」がある。そのおかしさのわかる大人の男たちのための撰歌集である。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九 新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。