帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集 巻第一 春秋 (三十一と三十二)

2012-04-04 00:02:43 | 古典

  

 

 

          帯とけの新撰和歌集

 

 

 紀貫之の云う「歌の様」を知らず「言の心」を心得ないで、近世以来、解き明かされてきたのは歌の清げな姿のみ。歌の「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解け、生々しい人の心が「浮言綺語の戯れのような歌言葉のうちに顕れ」、貫之の云う通り「絶艶の草」と実感できるでしょう。

 

 紀貫之 新撰和歌集 巻第一 春秋 百二十首(三十一と三十二)

 

 春日野の若菜つみにやしろたへの そでふりはへて人のゆくらん 

                                    (三十一)

 (春日野の若菜摘みにかな、白妙の袖を振り映えて人が行くようだ……かすか野の若なつみでかな、白絶えの端ふり延て、男が逝くようだ)。

 
  言の戯れと言の心

 「かすがの…春日野…所の名…春に若菜摘み小松引く野…春に男女交歓する野」「かすか…微か…わずか」「野…山ばではないところ」「若菜摘み…若女つみ」「菜…草…女」「つみ…摘み…採り…めとり」「に…場所を表す…原因理由を表す」「しろたへ…白妙…白絶え」「そで…衣の袖…端…身の端…おとこ」「ふりはへ…振り映え…振り栄え…ふり延え…古りのび…古りばて」「ゆく…行く…逝く」「らん…らむ…原因などを推量する意を表す…事実を推量の形で婉曲に述べる」。

 

 

 秋の野にみちもまどひぬ松虫の こゑするかたにやどやからまし 

                                    (三十二)

(秋の野で道にも迷うた、松虫の声する方に、宿でも借りればいいか……飽きのひら野で、ゆくべき路も惑うてしまった、待つむしの声する方に、や門かりしたものだろうか)。

 

 「秋…飽き…厭き」「野…ひら野…山ばではない」「みち…道…路…山ばへ向かう道」「まつ…松…待つ…女」「むし…虫…身の虫」「やど…宿…家…女…やと…屋門…女」「かる…借る…狩る…刈る…めとる…まぐあう」「まし…すればよい(適当の意を表す)…したものだろうか(戸惑いを表す)」。

 

 

 近代人には、両歌の「清げな姿」しか見えなくなったので、当然のことながら、くだらぬ歌、怠惰な歌でしかないでしょう。古歌の「歌のさま」を見失ったまま、近代の歌の様式を適用して古歌を聞いているためである。

 

 藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、歌のさま(歌の様式)を、歌は「心」「姿」「心におかしきところ」の三つの意味があると捉えた。そして「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりというべし」と定義した。

 

 ここに抽出された歌は、心深いかどうかは知らないけれど、「清げな姿」のうちに「心におかしきところ」がある。そのおかしさのわかる大人の男たちのための撰歌集である。

 

 

 伝授 清原のおうな

 

 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

 

  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九 新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。