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帯とけの新撰和歌集
言の戯れを知らず、貫之の云う「言の心」を心得ないで、解き明かされてきたのは和歌の清げな姿のみ。公任の云う「心におかしきところ」を紐解きましょう。貫之の云う「艶流、言泉に沁みる」を実感できるでしょう。帯はおのずから解ける。
紀貫之 新撰和歌集 巻第一 春秋 百二十首(四十五と四十六)
山ざくらわが見にくれば春がすみ 峰にもをにもたちかくしつつ
(四十五)
(山桜、我が見物に来れば、春霞、峰にも尾にも立ち、隠しつづけている……山ばのお花、我が見に繰れば、春が澄み、峰でもおにも、絶ちきえしつつ)。
言の戯れと言の心
「山…山ば」「さくら…桜…木の花…おとこ花」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「くれば…来れば…繰れば…繰り返せば」「春がすみ…春霞…春情の澄み…張るの済み」「春…春情…張る」「峰…山の頂…山ばの頂上」「を…尾…山すそ…おとこ」「たち…立ち…断ち…絶ち」「かくし…隠して…見えなくして…斯くして…こうして」「つつ…反復または継続を表す…筒…おとこ…空しきおとこ」。
たがための錦なればか秋霧の さほの山辺をたちかくすらむ
(四十六)
(誰の為の錦の織物なのか、秋霧が佐保の山辺の紅葉をどうして、立ち隠すのだろう……誰の為の錦木なのか、飽き切りの、さおの山ばの辺りを、どうして絶ち、なくすのだろう)。
「にしき…錦…多彩な絹織物…黄葉紅葉のたとえ…錦木…求愛のしるしに女の家の門に立てる木…男木…おとこ」「秋霧…飽き切り」「さほ…佐保…所の名…さお…おとこ」「山…山ば」「かくす…隠す…なくす」「らむ…原因理由を推量する意を表す」。
定家の父、藤原俊成は『古来風躰抄』に「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているけれども、そこに歌の深い趣旨が顕れる」と述べ、「歌は、ただ読み上げたり、詠じたりすると、何となく艶にもあわれにも聞こえることがある」とも述べている。
この両歌に顕れた何となく艶なるありさまは、はるの果て、あきの限りに、かくれゆくもののありさまでしょう。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九 新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。