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帯とけの新撰和歌集
言の戯れを知らず、貫之の云う「言の心」を心得ないで、解き明かされてきたのは和歌の清げな姿のみ。公任の云う「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
紀貫之 新撰和歌集 巻第一 春秋 百二十首(五十九と六十)
あさみどり糸よりかけて白露を 玉にもぬける春のやなぎか
(五十九)
(浅みどりの糸、撚りをかけて、白露を白玉のようにも貫き通した春の柳だなあ……情浅い若もの、とっても頑張って、白つゆを、魂だとばかりぬいた青春の枝垂れぎよ)。
言の戯れと言の心
「あさ…浅い…薄情な」「みどり…緑…若い…見とり」「見…覯…まぐあい」「いと…糸…とっても…たいそうに」「よりかけて…撚りをかけて…強くして…頑張って」「しらつゆ…白露…白つゆ…おとこ白つゆ」「玉…珠…真珠…宝玉…魂」「ぬける…貫ける…抜ける…出した…脱ける…脱力した」「春…春情…青春…張る」「柳…枝垂れ木…男木…おとこ」「か…感動、詠嘆の意を表す」。
さを鹿の朝たつ小野の秋萩に 玉とみるまでおける白露
(六十)
(さ牡鹿の朝立つ小野の秋萩に、玉と見えるほどおりた白露よ……さおし下の浅絶つひら野の飽き端木に、魂と見るほど、贈り置いた白つゆよ)。
言の戯れと言の心
「さをしか…さ牡鹿…さお肢下…おとこ」「さ…接頭語」「あさ…朝…浅…低い…薄い」「たつ…立つ…断つ…絶つ」「おの…小野…ひら野…山ばではない」「あきはぎ…秋萩…飽き端木…厭きのおとこ」「玉…珠…真珠…宝玉…魂」「見…目で見ること…見て思えること…覯」「まで…ほども…程度を表す」「おける…露霜がおりた…送り置いた…贈り置いた」「白露…白つゆ…おとこ白つゆ…体言止めは感嘆・詠嘆の心情を含む」。
両歌は、「深い心」はともかくとして、若柳と白露、秋萩と白露の景色を詠んでそれぞれ
「清げな姿」をしている。春歌は、張るものの魂をぬきはなち枝垂れ木となったおとこの喪失感。対する、秋歌は、飽き満ち足りたのか贈り置いた後のおとこの喪失感。これが公任のいう「心におかしきところ」。
歌の様(表現様式)は、藤原公任の優れた歌の定義から学びましょう。「およそ歌は心深く姿きよげに、心におかしきところあるを優れたりといふべし(新撰髄脳)」という。
中世に埋もれ、近世に見失い、歌から「心におかしきところ」が消えて久しい。それはこのように、言の戯れに顕れる。藤原俊成の『古来風躰抄』に、歌の言葉は「浮言綺語の戯れにも似たれども深き旨も顕る」とある。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九 新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。