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帯とけの拾遺抄
和歌の表現様式は平安時代の人々に聞き、藤原公任の撰んだ優れた歌の集「拾遺抄」を、公任の教示した優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」(新撰髄脳)に従って紐解いている。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。
歌の言葉については、清少納言の「女の言葉(和歌など)も、聞き耳(によって意味の)異なるものである」(枕草子)と、藤原俊成の「浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕る」(古来風体躰抄)を参考とした。平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を、指摘するような解釈はあえてしない。
拾遺抄 巻第七 恋上 六十五首
題不知 貫之
二百三十 いろならばうつるばかりにそめてまし おもふこころをしる人のなき
題しらず (紀貫之・人麻呂と赤人を理想とし色好みに堕した歌からの脱却を目指した人)
(染色ならば色移りするばかりに、濃く・染めるだろうよ、思う心を・男の厚情を、知る女はいない・薄情だという……色情ならば色移りするばかりに、貴女を・染めてしまうだろうよ、一瞬に・思う男の感情を、知る女はいない)
言の心と言の戯れ
「いろ…色…色彩…染色…色情…色欲」「まし…仮に想像することを述べ、そこに意向を表す…もしも何々ならば、何々だろうにな」「おもふこころ…思う心…心情…性情…色情…感情」「人…異性…女」
歌の清げな姿は、男と女の思いの違いは性(さが)の違い、お互い永遠に知ることはない。
心におかしきところは、男の思う心は張りつめた色欲の破裂、あとは水のない逝けの底、返る力のない蛙のようなもの、こんなこと知る女はいない。
二百三十一 あふ事をまつにてとしのへぬるかな 身はすみのえにおひぬものゆゑ
(作者名なし・拾遺集よみ人しらず・女の立場で詠んだ貫之の歌として聞く)
(君に・逢う事を、松・待つにて、年が経ってしまったことよ、わが身は、松の名所・住の江で生まれたもので……和合を、女として待っていて、疾しが・早過ぎる時が、経ってしまったのねえ、わが身は澄みの江で、感極まらないのに)
言の心と言の戯れ
「あふ事…逢うこと…合うこと…和合すること」「まつ…待つ…松…言の心は女…長い年月変わりのないもの」「とし…年…疾し…早過ぎ…おとこのはかない性」「ぬる…ぬ…完了したことを表す…してしまった」「かな…感嘆・詠嘆の意を表す」「すみのえ…住の江…澄の江…住吉…松の名所…澄みの女…静かに沈んだ女」「江…言の心は女」「おひぬ…老いた…生まれた…極まった…感極まった」「ものゆゑ…それ故…ので…のに…物の所為」
歌の清げな姿は、男を待つけれども、何年経ってもっても来そうもない、諦めの心境の住の江の女。
心におかしきところは、和合を期待して、取り組んでいたけれど、肩すかしをくらって沈んだままの女の心情。
ほぼ同じ趣旨の歌を探せばあった。「貫之集」第五恋、にあった。女の立場で詠んだ歌として聞く。
あふことのなくて月日はへにけれど 心ばかりは明けくれもせず
(君に・逢う事がなくて月日は経ったけれど、心だけは、明けもせず暮れもせず・沈んだままよ……和合することがなくて、つき引きは経たけれど、心だけは、あいも変わらずよ)
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。