帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第七 恋上 (二百五十二)(二百五十三)

2015-06-17 00:30:52 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任の撰んだ優れた歌の集「拾遺抄」を、公任の教示した優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」(新撰髄脳)に従って紐解いている。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。

歌の言葉については、清少納言枕草子女の言葉(和歌など)も、聞き耳(によって意味の)異なるものである」と、藤原俊成古来風体躰抄「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」に学んだ。

平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような江戸時代以来定着してしまった解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観にも逆らって、歌を解くことになるからである。


 

拾遺抄 巻第七 恋上 六十五首

 

(題不知)                        勝観法師

二百五十二 しのぶればくるしかりけりはなすすき  秋のさかりに成りやしなまし

(題しらず)                      (勝観法師・父は源公忠、兄は源信明・弟は二百三十二の寛祐法師)

(恋しさに耐え・忍ぶのは苦しいことよ、花薄、秋の盛りになれば、枯れ・死んでしまうだろうになあ……耐え忍べば、苦しいことよ、おとこ花薄、飽き満ち足りの盛りになれば、涸れ・死んでしまうだろうになあ)

 

の心と言の戯れ

「しのぶ…偲ぶ…恋慕う…忍ぶ…耐え忍ぶ…我慢する」「けり…気付き・詠嘆などの意を表す」「はなすすき…花薄…穂にほが咲いたすすき…薄は草花ながら、すす木で、薄情なためかどうか、言の心は男…秋の・飽きの、盛りに枯れる」「や…疑問・詠嘆などを表す」「しなまし…しぬまし…なってしまだろうに…死ぬだろうに」「な…[]の未然形」「まし…何々ならば、何々だろうに」

 

歌の清げな姿は、耐え忍べば、こうべを垂れ苦しそうなすすき、秋風に揺れ動きつつ、枯れゆくのだろう。花薄の生涯。

心におかしきところは、我慢すれば、苦しいかりとなるなあ、薄い情のおとこ花、飽き満ちれば、死んでしまうだろうに。おとこ花薄の生涯。

 

男の色欲について、法師の一つの悟りの境地が表現されてあるのだろう。


 

和歌のこのような解釈は、今の人々にとって、寝耳に水か、青天の霹靂なのは、花薄がおとこ花であるなどというふざけたことが、納得できるような文脈には居ないためである。清少納言はどうだったか、言の心の違う「木の花」と「草の花」を分けて語っている。仮に、「木の花」の梅・桜・橘などは男花、「草の花」の撫子、女郎花、すみれなどは女花、とする人に成って、且つ、例外もあることなど、つまり、清少納言らと同じ言語感で、枕草子「草の花は」を読んでみよう。女花の桔梗、菊、竜胆などについて述べた後。「はぎ」「ゆうがほ」「しもつけの花」「あしの花」と、おとこ花らしい名を連ねた後に、

 

これにすすきを入れぬ、いみじうあやしと人いふめり。秋の野のおしなべたるおかしさは、薄こそあれ。穂先の蘇枋にいとこきが、朝露にぬれてうちなびきたるは、さばかりの物やある。

(これに・草花に、薄を入れないと、とっても変よと女達は言うでしょう。秋の野のすべてのおかしさは薄にある。穂先の蘇枋色の濃いのが、朝露に濡れてうち靡いているのは、これ程のおかしいものが他にあるか・ないよねえ……これに・草花でも男花の仲間に、薄を入れないと、とっても変よと女達は言うでしょう。飽き満ちて山ばのないひら野のすべてのおかしさは、すすき・薄、情の薄いおとこ花にある。お先の赤紫色のいと濃いのが、浅つゆに濡れてうち靡いているのは、これ程のおかしいものが他にあるか・ないよねえ)

秋のはてぞ、いと見所なき。色々に乱咲きたりし花の、形もなく散りたるに、冬の末まで、かしらのいと白くおほどれたるもしらず、むかし思ひいでかほに、風になびきてかひろぎ立てる、人にこそいみじう似たれ。よそふる心ありて、それをしもこそあはれと思ふべけれ。

(秋の果てぞ、まったく見所がない。色々に乱れ咲いた花が、形もなく散ったので、冬の末まで、頭髪のとっても白く、乱れ広がっているのも知らず、昔を思い出し顔で、風に靡き、ゆらゆら揺れて立っている。老・人に、とってもよく似ている。喩える心があって、それを・薄を、哀れと思うのでしょうよ……飽きの果てぞ、まったく見・覯どころが無い。色事に乱れ咲いたおとこ花が、形もなく散ったので、終末まで、ものの頭の辺りのいと白く、乱れ広がっているのも知らず、武樫、思い出し彼おで、厭きの心風に・風に、靡いて、ゆらゆら揺れて立っている。男に・おとこに、とってもよく似ている。たとえる心があって、それ、お、下、こそ、愛おしいと思うのでしょうよ)

 

公任と清少納言は同年配である。「拾遺抄」の歌々と、「枕草子」の文は同じ文脈にあり、「言の心と言の戯れ」は同じである。歌の「心におかしきところ」がわかれば、枕草子がおかしく読める。歌のおかしさのわからない人は、枕草子の表面の意味から「をかし」が心に伝わることはない。今や、歌と歌物語と共に、枕草子も解釈不在である。

 

 

読人不知

二百五十三 よそに見て有りにしものを花すすき  ほのかに見てぞ人は恋しき

(題しらず)                    (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(遠い他所より、お姿を拝見していたものを、花すすき・男花、近くで・ちらりと見てから、あの人が恋しい……遠いところより、お顔を・拝見していたものを、おとこ花、ほんのりと・ちょとだけ、見・覯てからよ、人端こいしい)

 

の心と言の戯れ

「よそ…他所…遠い所」「見て…拝見して…垣間見て」「見…拝見」「花すすき…花薄…おとこ花」「ほのかに…ぼんやりと…ほんのりと…ちょっとだけ」「見…覯…媾…まぐあい」「人…あの人…男」「恋しき…乞いしき…求めている」「は…が…強調して提示する意を表す…なんと何々が…端…身の端」

 

歌の清げな姿は、近くでちらりと見た花薄の姿より連想される、あの人が恋しい。

心におかしきところは、ほんのりと経験して、乱れ咲くおとこ花、なんと人の端がこいしい。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。