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帯とけの拾遺抄
藤原公任の撰んだ優れた歌の集「拾遺抄」を、公任の教示した優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」(新撰髄脳)に従って紐解いている。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。
歌の言葉については、清少納言枕草子「女の言葉(和歌など)も、聞き耳(によって意味の)異なるものである」と、藤原俊成古来風体躰抄「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」に学んだ。
平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような江戸時代以来定着してしまった解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観に逆らって、歌を解くことになるからである。
拾遺抄 巻第七 恋上 六十五首
人丸
二百四十八 こひつつもけふはくらしつ霞立つ あすのはるひをいかでくらさむ
(題しらず) 柿本人麻呂
(妻恋しながらも、今日は暮らした、霞立つ明日の春の日を、どうして暮らそうか……乞い求めつつも、京は果ててしまった、彼素身立つ明日の張るの火を、どうして果てようか)
言の心と言の戯れ
「こひつつ…恋つつ…乞いつつ…乞い求めつつ」「けふ…今日…京…山ばの頂上…絶頂」「くらしつ…暮らしていた…その日は果てた…果てていた」「つ…完了した意を表す…終わってしまったことを表す」「霞立つ…春霞が立つ…彼素身立つ…我が貴身が起つ」「はるひ…春日…春の日…晴れの日…張るの日…張るの火」「いかで…どのようにして…どうして…逝かで…逝かずに」「で…手段方法などを示す…ず…打消しの意を表す…ずに」「くらさむ…暮らそう(か)…暮らすだろう(か)…果てよう(か)…果てるだろう(か)」
歌の清げな姿は、なぜ引き離され、如何なる垣根に囲まれたのか、わからないが、逢えない恋。
心におかしきところは、そのような情況で、春の情と共に張る立つものを如何にせん、如何ともし難い男のさが。
公任の優れた歌の定義に、「心深く」という条件があった。
この歌も、先の(二百四十六)の歌も、「言の心と言の戯れ」に顕れるのは、男の心情に煩わしくも湧き立つもの、いわば煩悩である。その具体的なものも詠まれてあるが、言葉の戯れに包まれてある。貫之、公任、清少納言、俊成は、人麻呂の歌から上のような事柄を聞き取っていただろう。彼らの歌論と言語観に従って紐解いた結果、顕れた事柄である。
藤原俊成は、「古来風躰抄」で、歌に詠まれた煩悩は即ち菩提(悟りの境地)であるという。俗間の経書(漢詩・和歌等)に、資生の業を説くならば、皆正法に順ずと言われるという意味の事を述べている。
読人不知
二百四十九 わびつつも昨日ばかりはくらしてき けふや我が身のかぎりなるらん
(題しらず) (よみ人しらず・男の歌として聞く)
(妻恋に・心細くて嘆きながら、昨日ぐらいまでは暮らしてきた、今日はもしや、我が身の命、限りだろうか……恋い乞いて・思い萎えつつも、昨日ぐらいまでは果ててきた、今日や・京か・感の極みか、わが貴身の命、最後だろう)
言の心と言の戯れ
「わびつつ…「昨日ばかりはくらしてき…昨日までは(健康に暮らしてきた)…昨日までは(無事に暮らしてきた・いよいよその日が来た)…昨日までは(貴身も張る立ち果てて来た)」「けふや…今日や…今日がその日か…今日が京か(我が生涯の極みか)…今日が京か(張る立つものの絶頂か)」「かぎり…限り…期限…期日…最後」
歌の清げな姿は、事情はわからないが、逢えない恋。
心におかしきところは、そのような情況で、春の情と共に張る立つものは果ててきた、それも今日が最後か。
人麻呂とは無関係ながら人麻呂歌に添えて、ほぼ同じ情況にある男の歌が並べられてあると思われる。これは、歌の意味をより際立たせるための、撰者で編者の公任のわざであろう。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。