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帯とけの拾遺抄
藤原公任の撰んだ優れた歌の集「拾遺抄」を、公任の教示した優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」(新撰髄脳)に従って紐解いている。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。
歌の言葉については、清少納言枕草子「女の言葉(和歌など)も、聞き耳(によって意味の)異なるものである」と、藤原俊成古来風体躰抄「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」に学んだ。
平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような江戸時代以来定着してしまった解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観にも逆らって、歌を解くことになるからである。
拾遺抄 巻第七 恋上 六十五首
はじめてをんなのもとにまかりて又の朝につかはしける 能宣
二百五十六 あふことをまちしつきひのほどよりも けふのくれこそひさしかりけり
初めて女の許に行った翌朝に言い遣った (大中臣能宣・元服したばかりの頃。後に、父を継いで伊勢神宮祭主)
(逢う事を待っていた月日の間よりも、今日の夕暮れを・待つ間こそ、久しく感じることよ……和合する事を待った突き引の程よりも、貴女の・京の果て待つ間、久しく感じたなあ)
言の心と言の戯れ
「あふ…逢う…合う」「つきひ…月日…突き引」「ほど…程…程度…間隔…時間…間」「けふのくれ…今日の暮れ…京の暮れ…山ばのの果て」「京…山ばの峰…絶頂…感の極み…宮こ」「けり…気付き・詠嘆の意を表す」
歌の清げな姿は、男にとっての待望の初夜を終え、より思いがつのるという率直な感想。
心におかしきところは、男と女の性の格の違いに気付いた率直な、感嘆か、詠嘆か。
後朝の文として、女への強い情愛が十分に伝わる。歌は、同時に和合の感想までも述べる事の出来る表現様式を持ていたのである。
権中納言藤原敦忠
二百五十七 あひみてののちの心にくらぶれば むかしはものもおもはざりけり
(拾遺集では題しらず) (権中納言藤原敦忠・父は藤原時平、母は在原業平の孫娘。敦忠は業平のひい孫にあたる)
(夫婦となった後の心に比べれば、独り身の・昔は、これほど・恋しい思いはしなかったよ……合い見ての後の心に比べれば、武樫は・我がおとこは、これほど悩まなかったけどなあ)
言の心と言の戯れ
「あひみて…逢い見て…結婚して…夫婦となって…合い見て」「あひ…逢い…合い」「見…結婚…覯…媾…まぐあい」「むかし…昔…独り身の頃…ものが武樫だった頃…強く堅かった頃」「ものも…あれこれと…我が物も(自らの弱さについて・おんなとの性格の不一致について)」「おもはざりけり…思わなかったなあ…悩まなかったのになあ」
歌の清げな姿は、後朝の歌として、恋しさと、女の不安な思いを慰撫する心が十分に伝わる。
心におかしきところは、充分な和合に至らなかったのだろう、言い訳がましいところ。
敦忠は「大鏡」によれば、和歌の上手、管弦などの才能も豊かな人だったが、短命を自覚していて三十八歳で亡くなった。
「むかし…昔…武樫…強く堅い」という戯れの意味は、「伊勢物語」の語り出しの言葉「むかしをとこありけり」を(昔、男がいた……つよく、かたい、をとこがあった)と同時に聞く耳を持っていた頃の歌にはあった。「古今和歌集」の歌が「秘伝」となった鎌倉時代より、歌物語の「伊勢物語」も次第に埋もれ木となって、歌の秘密の意味と共に、その語り口のおかしさも消えたのである。
藤原定家は、「百人一首」に、この歌を撰んだ。まだ歌の「心におかしきところ」が聞こえていたからである。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。