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帯とけの枕草子(拾遺十三)硯の箱は
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、この時代の人々と全く異なる言語感で読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言枕草子(拾遺十三)すゞりのはこは
文の清げな姿
硯の箱は、重ねの蒔絵に雲鳥の紋。
原文
すゞりのはこは、かさねのまきゑに雲鳥のもん。
心におかしきところ
す擦りの端こは重ねの真木枝に、心雲たつ、女の門。
言の戯れと言の心
「す…女…洲…おんな」「はこ…箱…端子…身の端」「かさね…重ねて…三重ならなお愛でたい」「まきゑ…ま木枝…真のおとこ」「枝…身の枝…おとこ」「雲鳥…雲居の鳥…心に雲立つ女」「雲…煩わしいばかりに心に湧き立つもの…情欲など」「鳥…言の心は女」「もん…紋…紋様…門…おんな」。
雲や鳥などの「言の心」は、古代人の共有した思いである。万葉集の歌を読みましょう。
巻第十 春相聞 寄雲
白檀弓いま春山に去る雲の 逝や別れむ恋しきものを
夏雑歌 詠鳥
あひ難き君に逢へる夜ほととぎす 他の時よりは今こそ鳴かめ
秋雑歌 詠雁
秋風に山とへ越ゆる雁鳴は いや遠ざかる雲隠りつつ
秋雑歌 詠鳥
妹が手を取石の池の浪間より 鳥音異に鳴く秋過ぎぬらし
歌は、それぞれ「清げな姿」をしている。それは字義をたどればおおよそわかる。それに憶見を加えることが解釈ではない。次のような「心におかしきところ」を感じることができれば、歌は解ける。
(……白けた真弓、いま春の山ばに去る雲のように、逝くのね、別れでしょう、恋しいものを)。
(……合い難き君に合える夜、ほと伽す、他の時よりは、今こそ泣くでしょう)。
(……飽き風に山ば辺を越え、かりする女の声は、いや遠ざかる、雲隠れつつ)。
(……愛しい女の手を、取り居し逝けの浪間より、とりの声、異に泣く、飽き過ぎたらしい)。
このように聞くには、「雲…情欲」「鳥…女」の「言の心」の他に、「白…色の果て」「弓…おとこ」「相…逢…合…和合」「ほととぎす…鳥…女…ほと伽す」「秋…飽き満ち足り」「山…山ば」「雁…鳥…女…かりとり…めとり」「池…逝け」「浪…心波」などの、言の戯れや言の心を心得なければならない。
このようなことは、江戸時代の大真面目な学者や歌人たちには見向きもされなかった。近代人の論理的思考によって排除される事柄でしょう。歌の解釈が国文学という名に学問と成った現代ではなおのこと、許容されない事柄である。かくして、残念ながら、「古今伝授」などに埋もれてより、数百年も「和歌」の真髄は埋もれ木となり続け、「枕草子」も清げな姿しか見えなくなった。
少なくとも言葉という代物だけは、人の論理的な思考に適うものではないと知って、ひとたび、そのような思考を脱して、古代人の作り上げた「言の戯れと言の心」の世界に飛び込めば、伝統ある「和歌」や「枕草子」の「心におかしきところ」や、有るかも知れない「深き心」を、観じることができるでしょう。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。