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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首 (三百二十五と三百二十六)
わび果つる時さへもののかなしきは いづれをしのぶ心なるらむ
(三百二十五)
(がっかりして、気落ちし果てた時さえ、もの悲しいのは、何を耐え忍ぶ心なのでしょうか……君ががっくりと果てた時、小枝、ものが愛しいのは、出づるお、恋い慕う心なのでしょうか)。
言の戯れと言の心
「わび果つる…すっかり悲観してしまう…気落ちしてがっくりした…やりきれず果てた」「さへ…までも…添加の意を表す…さ枝…小枝」「さ…美称…小」「枝…身の枝…おとこ」「もの…言い難きもの…さ枝」「かなし…悲し…愛し」「いづれを…何を…出づれお…出たお」「しのぶ…忍ぶ…耐え忍ぶ…偲ぶ…恋い慕う…懐かしむ」「らむ…どうしてだろう…何なのだろう…原因・理由を推量する意を表す」。
古今和歌集 恋歌五、題しらず、よみ人しらず。第四句「いづこをしのぶ」。女の歌として聞く。
歌の清げな姿は、気落ちし果てた時に、なお悲しいのは、執着する心を我慢しているのでしょうか。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、がっくりと果てた小枝、愛しいのは出でるおを偲ぶ女心でしょうか。
身は捨てつ心をだにもはふらさじ つひには如何なると知るべく
(三百二十六)
(身は捨てた、心だけは放り出さない、終にはどうなるかと、知ることができるように……身の枝は津井に見捨てた、心だけは放り出さない、捨てた身、終には、津井ではどうなるかと、知ることができるように)。
言の戯れと言の心
「身は捨てつ…わが身を犠牲にした…出家隠遁した…見は捨てた」「身…男の身…さ枝…見…まぐあい」「すてつ…捨てた…(果てたものを)見捨てた」「はふらさじ…放り出さない…(心は)見捨てない」「つひに…終に…最後に…つゐに…津井で」「津…女…井…女」「に…時や場所を示す」「いかなる…如何なる…どうなる…(津井には放り出されるか愛しがられるか)どうなる」。
古今和歌集 雑体、誹諧歌。題しらず、男の歌。
歌の清げな姿は、世の憂きを厭い、浮かぶ瀬もあるかと身は捨てた、どうなるのか。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、果てたので見捨てた、どうなることやら、折れ逝った小枝を思う男心。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。