帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑 (三百十五と三百十六)

2012-09-18 00:12:10 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(三百十五と三百十六)


 嬉しきをなにゝ包まむ唐衣 たもと豊かに裁たましものを
                                   
(三百十五)

(嬉しいことを何に包もうかしら、唐衣、袂をゆったり裁ち縫っておけばよかったなあ……嬉しきお、何で包もうかしら、女の浮こころと身、君の手元、豊かに立っていればなあ、ものおが)。


 言の戯れと言の心

 「嬉しきを…喜びを…嬉しさを…喜ばしいお…嬉しいおとこ」「唐衣…色とりどりの女のうわぎ…うわついた女の心身」「衣…心身を包んでいるもの…心身の換喩」「たもと…袂…手元…男の手元…ものお」「豊かに…広く大きく…豊満に…大きく太く」「たたまし…裁っておけば(よかった)…立っていれば(いいのに)」「まし…もし何々だったら何々だろう…仮に想像する意を表す。希望や不満の意を込めてある」「ものを…のに…のになあ…物を…ものお」「物…物体…はっきり云い難いもの」「を…お…おとこ(不満の相手)」。


 古今和歌集 雑歌上。題しらず、よみ人しらず。第五句「たてといはましを」。女の歌として聞く。

 歌の清げな姿は、何かの喜びを誇張して表わした。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、女の浮かれた心と身で包むわ、豊かに立ってよ。

 


 秋くれば野にも山にも人くたつ たつとぬるとや人の恋しき
                                   
(三百十六)

 (秋来れば、野にも山にも人が来立つ、留まると必ず寝るかどうか、人恋しい……飽きくれば、野でも山ばでも男はくたばる、いで立つとともに濡れるとや、男が恋しい)。


 言の戯れと言の心

 「秋…季節の秋…飽き」「野にも山にも…山野にも…山ばでないところでも山ばでも」「人…人々…男」「くたつ…来立つ…出かけてくる…降つ…くだる…更ける…衰える…くたばる」「たつ…立つ…出立つ…出かける…立ち寄る…止まる…留まる」「と…といつも…と必ず…とともに」「ぬる…寝る…濡れる」「とや…疑いの意を表す…詠嘆の意を表す」「人…男…よき男」。


 古今集の歌ではない。よみ人しらず。女の歌として聞く。

 歌の清げな姿は、人恋しい秋の日の女の思い。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、山ばの京を前にして男はくたばる、出で立つとともに、しっとり濡れる男が恋しい。


 両歌とも、男に対する女の不満や希望を、心におかしく表現してある。

 

 漢文序に、貫之は撰んだ歌について、「花実相兼」「玄之又玄」「絶艶之草」などと記している。その意味は、歌の「心におかしきところ」を知ればわかる。歌の「清げな姿」だけを見ていてはわからない。


 伝授 清原のおうな

 
 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。


帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑 (三百十三と三百十四)

2012-09-17 00:03:27 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(三百十三と三百十四)


 わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に 藻塩たれつゝわぶとこたえよ
                                   
(三百十三)

(たまに、我が消息を、問う人があれば、須磨の浦で藻塩たれながら、涙落とし、心細く嘆いていると答えてくれ……たまたま、この消息を、問うひとがあれば、す間の裏で、喪士お垂れ筒、おわびしていると答えてくれ)。


 言の戯れと言の心

 「わくらばに…稀に…たまたま」「人…男…女…事件の相手の女人」「須磨の浦…所の名…名は戯れる、す間の裏、女の後ろ」「す…女」「ま…間…女」「もしほたれ…藻塩たれ…しおたれ…涙を落とし…喪士お垂れ」「も…藻…喪…凶事」「し…士…子…おとこ」「たれ…垂れ…ぶら下がり…力無く」「つゝ…続けて…継続の意を表す…筒…中空…空しい」「わぶ…侘ぶ…気落ちする…心細く感じる…わびる…謝る」。


 古今和歌集 雑歌下。詞書によると、田村(文徳天皇)の御時に、事件に当面して、津国の須磨という所に籠っていた時に、宮の内に居る人に遣った歌。男の歌。

歌の清げな姿は、洛外にて謹慎を命じられたらしい男の消息。歌は唯それだけではない。

歌の心におかしきところは、おとこの身が、うなだれ、わびているというところ。

 
 男は、天下の色男在原業平の兄。通じてはならない女人と情けを交わしたための謹慎らしい。


 わがいほは三輪の山もと恋しくば とぶらひ来ませ杉たてるかど
                                   
(三百十四)

(わたしの庵は、三輪の山の麓、恋しければ訪ねていらっしゃい、杉の立っている門よ……わたしの井ほは、三和の山ばの下、恋しければ弔いに来てね、さた過ぎ、とうが立った門になったことよ)。


 言の戯れと言の心

 「いほ…庵…家…女…井ほ」「井…女」「ほ…秀…優秀」「三輪…山の名…名は戯れる。三和、見和、三重なる和合」「山もと…山の麓…山ばのふもと…山ばの下…逝き果てたところ」「とぶらひ…訪ねること…訪問…弔い…弔問…死をいたむ」「すぎ…杉…過ぎ…年齢が過ぎる…その時期が終わる…盛りではなくなる」「たてる…立てる…経てる…時が経過する…女さかり過ぎてから年が経つ」「かど…門…女…体言止めは詠嘆の心情を表す」。


 古今和歌集 雑歌下。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。

歌の清げな姿は、引越の案内状。歌は唯それだけではない。

歌の心におかしきところは、昔、君も通った門が亡くなったわ、恋しければ弔門にいらっしゃいというところ。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。


帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑 (三百十一と三百十二)

2012-09-15 00:58:03 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(三百十一と三百十二)


 たが為に引きて散らせる糸なれば 世を経て見れどとる人もなし
                                   
(三百十一)

 (誰の為に、引き散らしてある白糸なのか、世を経て見ているけれど、取り入れる人もいない……誰の為に、娶って散らしている白つゆなのか、世を経て、夜を経て見れど、とりいれる女もいない)。


 言の戯れと言の心

 「ひき…引き…詞の意味を強める接頭語…草花など引き抜く…娶る」「散らす…まき散らす…あちらこちらと分ける…一人の相手ではない」「糸…白く細い水の流れ…白糸…細く弱く薄いおとこ白つゆ」「世を経て…長年にわたって…夜を経て」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「とる…取り入れる…取り入れ用いる…取り入れ孕む」「人…人々…女」。


 古今和歌集 雑歌上、吉野の滝を見て詠んだ法師の歌を本歌とする。男の歌として聞く。

 歌の清げな姿は、永遠に流れ続ける滝の景色。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、我が妻が誰も孕まない男の重大な悩み。

  

 「吉野の滝を見てよめる」法師の本歌を聞きましょう。

 たが為に引きて晒せる布なれや 世を経て見れどとる人もなき

 (誰の為に、ひき晒してる白布なのかな、世を経て見ているけれども、取る人はいない……誰の為に人にさらしてる衣なのかな、夜を経て見ても、はぎとる男はいない)。

 
 悠久の自然の営みを前に、人はただ眺めているだけだ。歌は唯それだけではない。

 誰の為の衣か、多気女の年老いた姿。その衣を、はぎとる男はもういない。

 


 今更にとふべき人もおもほへず 八重むぐらして門させりてへ
                                   
(三百十二)

(今更、訪うであろう男が居るとは思えない、八重葎でわが家の門、閉ざしたと正直に言え……今さら何だ、訪う男がいるとは思えない、八重むぐらでわが古さ門、閉ざしたと本当のこと言え)。


 言の戯れと言の心

 「今更に…今になって改めてかよ…今さら何だ(非難することば)」「八重むぐら…荒廃を象徴する雑草」「かど…門…女」「させりてへ…閉ざしたと言え…人の所為にせず自ら閉門したと言え…わが門は寄る年波に荒廃したので閉ざしたと言え」。


 古今和歌集 雑歌下。「あま」になったという元妻へ、男の返し歌。

 歌の清げな姿は、君が訪れなくなったので難波の三津寺で尼になったという女への返歌。
歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、年とともに八重葎で門は通行不能になったと本当のこと言え。


 古今和歌集 雑歌下。女の歌を聞きましょう。
 われを君なにはの浦にありしかば うきめを見つのあまとなりにき
 
(私を君が、難波のうらだったので、浮き藻を見つの、三津の海女となった……わたしを君が、何かと恨んだので、憂きめを見て、三津寺の尼となったわ)。


 
伝授 清原のおうな

 
 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。


帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑 (三百九と三百十)

2012-09-14 01:12:02 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(三百九と三百十)


 流れくる滝の白糸よわからし ぬけど乱れて落つる白玉
                                    
(三百九)

 (流れ来る滝の白糸、弱いらしい、横糸いれても乱れて落ちる白珠……汝涸れくる、女の多気への白糸弱いにちがいない、抜けど身垂れて落ちる白玉)。


 言の戯れと言の心

 「流れくる…汝涸れくる…泣かれくる」「汝…親しきもの…おとこ」「滝…女…多気…多情」「の…からの…への」「白糸…細いもの…弱いもの」「らし…確実な推量の意を表す…らしい…にちがいない」「ぬけど…横糸を入れても…抜けど」「みだれて…乱れて…みたれて…身垂れて…おとこの果て」「白たま…白珠…真珠…白玉…宝玉…おとこの涙」。


 古今集の歌ではない。男の歌。拾遺和歌集雑上 貫之。斎宮の宮の屏風歌。

 歌の清げな姿は、滝の絵に添えるのに相応しい歌。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、儚いおとこのさがを「なかれくる」とか「みたれておちる白玉」などというところ。


 

 世の中に絶えて偽りなかりせば 頼みぬべくも見ゆる玉づさ
                                   
(三百十)

 (世の中に絶えて偽りがないならば、頼みにしてしまいそうにも思える、恋文……夜の半ばに絶えて、井津、張り無くかりすれば、頼みにしているにちがいないと見える玉津さ)。


 言の戯れと言の心

 「世の中…男女の仲…夜の中」「いつはり…偽り…嘘ごと…井津張り…井津を張るもの…おとこ」「なかり…無かり…無く狩り」「かり…猟…めしとり…めとり…まぐあい」「頼みぬ…頼りにしてしまう…頼りにした…間違いなく頼りにしている」「ぬ…完了を表す…確かだと確認し強調する意を表す」「べく…べし…きっと何々だろう…違いない…確信をもって推量する意を表す」「も…強調」「見ゆる…思える」「見…覯…媾」「玉づさ…玉梓…玉章…便り…恋文…玉津さ…女」「玉…美称」「つ…津…女」「さ…細…美称」。


 古今集の歌ではない。よみ人しらず。男の歌として聞く。

 歌の清げな姿は、偽りの恋文、この世に絶えることはない。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、中絶えのおとこの、玉津さの思いを推量した。自責の念か。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。


帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑 (三百七と三百八)

2012-09-13 05:48:49 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(三百七と三百八)


 神無月しぐれふりおける楢の葉の 名におふ宮の古ごとぞこれ
                                    
(三百七)

 (初冬の候、しぐれの雨、降り置いた楢の葉の、奈良が名に付けられた都の、古事ですぞ、これ……初冬、神も女も無き月人壮士、冷たきお雨降りおいた寧楽の端の、汝に感極まる宮このひとの古言ですぞ、これは)


 言の戯れと言の心

「神無月…かみなつき…十月…初冬…神なし月…女無し月人壮士」「かみ…神…女」「月…月人壮士…男」「しぐれ…初冬の雨…冷たい雨…悲しい涙」「楢の葉…紅葉し落葉する葉…ならの端…寧楽の端…山ばの端」「名…汝…汝身…おとこ」「おふ…負う…名など付けられる…おう…極まる…感極まる」「宮…都…宮こ…寧楽の極み…感極まったところ」「古ごと…古事…古言」「ぞ…強く指示する」。


 古今和歌集 雑歌下。男の歌。詞書によると「貞観(清和天皇)の御時、万葉集はいつごろ作られたのかと、問わせられたので、詠んで奉った」或る臣の歌。

歌の清げな姿は、冷えびえとなる頃の、奈良の都の古言でございます。歌は唯それだけではない。

歌の心におかしきところは、万葉集全体から受ける印象を端的に奏上したところ。

 万葉集を素直に読めば、女と引き離された男の声と待つ女の声が、一貫して旋律となって流れている。それを聞けば、心が寒い、萎える、悲しいとしか言いようがない。それを此の歌は三十八字で表した。

今の人々は万葉集にどのような印象を持たされているのでしょうか。「ますらをぶり」などという雑な印象が、蔓延っていない事を祈る。
 古今集は、今の人々に清げな姿だけを見せて、下半身が埋もれいることさえ知られていない。これは残念ながら確かなことである。

 


 またばなほ寄りつかねども玉緒の たえて堪えねば苦しかりけり
                                    
(三百八)

 (待っていれば、男は猶も寄りつかないけれど、やはり玉緒のように絶えて、堪えられなければ女は苦しいことよ……または汝お、撚り付かない、とも玉の、おの命がこときれて、絶え根は、女もつらいことよ)


 言の戯れと言の心

 「またば…待たば…待っていれば…または…又は…復は…股は」「よりつかね…寄りつかず…撚りつかず…強くならない」「ども…けれども…とはいえやはり…とも…伴…供…共…いつも一緒の」「玉…美称…二つある玉」「緒…ひも…お…おとこ」「たえて…絶えて…耐えて」「たえね…堪えず…我慢できない…絶え根…絶えたおとこ」「ね…ず…打消しを表す…根…おとこ」「くるし…苦痛である…つらい…心配である」「けり…詠嘆の意を表す」。

 

 古今集の歌ではない。女の歌として聞く。

歌の清げな姿は、待つのもむなしいが、絶えてしまわれるとほんとうに辛い。歌は唯それだけではない。

歌の心におかしきところは、絶え根は苦しいことよ。


 此の歌は貫之自身の歌「待たばなほ寄りつかずとて玉緒の絶えと絶えてはわびしかりけり」を改作したのでしょう。



 伝授 清原のおうな

 
 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。