「読書の秋」とは昔から言われていることですが、この言葉は個人的には嫌いな使い方です。
一方で「スポーツの秋」とか「食欲の秋」とかもあるわけで、なんにでも使えてしまう便利性=ご都合よすぎるみたいな・・・
小学校時代に校長先生は朝礼で、運動会を前にすれば「スポーツの秋」と言うし、生徒に本を薦める時は「読書の秋」と言うのです・・・それを聞いていた私は「校長先生、この間と言っていることが違う」と考えたものです。
精神面・知的欲求・生活などなどで都合の良い時に「秋」に引っ掛けているに過ぎない。
都合の良い時に都合の良いように使えば良いということでしょう。
だから聞いたほうも「あれっ?、昨日は○○の秋って言っていましたよ」と言ってはいけないらしい。
そういう発言は「混ぜっ返す」とか「揚げ足を取る」みたいに白い目で見られるに違いない。
その時その時「○○の秋」と言われたら、『成る程そうですね』と反応しなければ世の中丸く行かないのが日本?
私などはどちらかというと白い目で見られる人種に入りそうです
例えば学生時代ですからもう30年以上昔ですが、丁度公害問題とか自然保護運動が言われ始めた頃です
それで、ある時そういう保護団体が催している会に出席した時のこと
啓蒙活動(嫌な表現ですが)的なフィルムが流れていまして・・・
ある農村で庭の柿の木・・・実を取る時に枝に数個柿の実を残しておく習慣だという話なんですが。
ナレーターは「野鳥のことを気遣った日本人の優しい習慣」(真冬にも鳥たちにも食べ物があるように・・・)と賛美するような・・・
マア日本人も昔から野鳥や自然に優しい国民であることを強調したかったのでしょうが・・・私にはこういうムリヤリ強調みたいな話は我慢できない
都合よく結びつけるような話の持って行き方が気になります
映写のあとディスカッションがあり
私は発言したかった・・・
「ここに集まっている人たちはどこかでグループのリーダー的に活動している人たちだと思います。ですから野鳥の保護に関して言うなら、情緒的・思いやりも大切ですが、科学的な根拠とか説明も大事ではないでしょうか。実際に枝先に残った柿の実がどの程度の役に立つのか。或いはどういう野鳥に有効なのか。それと柿の実を枝に残すということは冬の間の柿の木自身には良いことであるのか?或いは何か影響があるのか科学的根拠を・・・」
本当に発言したら、何だか石頭のトンチンカンな発言だと白い目で見られたかも知れませんねきっと
実際には挙手して発言しようとしたのですが同行の友人にきつく止められて実現しませんでしたが、もし発言したら友人もなにやら恥ずかしい思いをすることになったらしい・・・
「もしも・・・」起こらなかった出来事ですから、いまだに分かりません。
さて読書の秋ですが
読書のうちに入るのかどうか分かりませんが、先日TVで携帯小説というのを報道していました。
携帯電話のメールみたいに短いセンテンスの文章・・・イヤ文書というのだろうか? 何だかメモの羅列?
確かに新しい分野のモノだとは思うけれど、あれも小説の内でしょうか
確かに新しい何かではあるのでしょうね
但しキチンと区別はしないと
例えば「学生」という中に「中学生」「高校生」も含めてしまうような間違った使い方が積み重なるとそれが主流=正しいみたいになったり
「本が好き」と言う人がいて、よく聞くと「週刊誌」「月刊誌」「小説」などなど紙に活字が印刷されていて束になっていれば皆「本」だったり・・・流石に新聞はいくら厚くても本とは呼ばないでしょうが
私の学生時代はこういう区別が未だ厳然と(それ程ないか)残っていた時代だったような気がする・・・つまり大昔の学生だったと言うことか。
言葉の使い方も時の流れで変わって行くみたいに変わるのでしょうね
もっともその当時でも本来的な意味と使用されている使い方が食い違うものはありましたが・・・
例えば「抽象的」
絵画などの「抽象画」・・・転じてよく分からないこと、曖昧なことを「抽象的」と言う人が多い、これを誰が最初に言ったのか知りませんが「抽象的」と言ったのが間違いでしょうね。
もし言うとしたら「抽象画的」なら
だから「抽象」と言う言葉自体が誤解を受けているのですね。
訳の分からないことみたいに・・・実際は「物事の中から本質をつかみ出す」と言う意味ですから全く反対な使われ方
ところで今朝TVで描いた絵が「シュールな絵」と言われたと言うタレントが辞書で調べたらシュール=意味不明という意味もあるそうで
そういう意味では名前と中身は別と考えれば「抽象」も解決するのかも知れませんね
「優子」さんが優しくて、武男君が勇ましくなくてもいいわけですから・・・
さて相変わらず脱線しています
図書館で囲碁・将棋の戸棚の前に立ちますと、圧倒的に囲碁の本の方が、少ない
ここの蔵書(と呼べるほど立派な図書館ではありませんが)では比率は1:2くらいに少ない。
勿論ここに在る本は囲碁界・将棋界の全ての出版物とはかけ離れていると思いますから、ここで見えることが正しいかどうかは分かりませんが・・・
何処が違うか見ると「布石」「定石」「詰碁」「寄せ」などのテクニックとか作戦に関するものはそれ程変わらないように思う・・・イヤ全体的に少ないか?
一番違うのが「エッセイとか」「棋士の記録」「棋士の日記・随筆」の類だろうか・・・
棋士にも個人情報とか私的な生活と公的活動は別だから、何でもかんでも話せばいいというものではありませんが、ファン・素人碁打ちにとっては憧れであるし特別な人たちがどんなことを考えているとか、どういう日常と非日常を過ごしているのか知りたいと考えるのです。
マア「普通の人と変わらない」と言う部分と「流石に棋士」というところがあるのでしょう?
現在活躍中の棋士では話に出てくる方々に差しさわりがある話はかけないとかの問題があるでしょうが・・・
「お稽古話」とか「呉清源」とか「囲碁を世界に」とか読ませていただきましたし
「実録囲碁講談」など中山先生のファンでもあるのですが・・・こういう本がもっとあっても良いのでは無いかと思うのです。
最近は棋士のブログなどあり、若手棋士がグループで書き込んでいるものがあります・・・それはそれで楽しく拝見させて戴いていますが、やはり「本」とは違うような気がします。
ジャンルは「日記」「随筆」「歴史」などなどあるとして「ブログ」とは違うでしょう
もっとも「そんなことを考える暇があったらもっと修行せい、渇ッ!!」
かもしれません。
一方で「スポーツの秋」とか「食欲の秋」とかもあるわけで、なんにでも使えてしまう便利性=ご都合よすぎるみたいな・・・
小学校時代に校長先生は朝礼で、運動会を前にすれば「スポーツの秋」と言うし、生徒に本を薦める時は「読書の秋」と言うのです・・・それを聞いていた私は「校長先生、この間と言っていることが違う」と考えたものです。
精神面・知的欲求・生活などなどで都合の良い時に「秋」に引っ掛けているに過ぎない。
都合の良い時に都合の良いように使えば良いということでしょう。
だから聞いたほうも「あれっ?、昨日は○○の秋って言っていましたよ」と言ってはいけないらしい。
そういう発言は「混ぜっ返す」とか「揚げ足を取る」みたいに白い目で見られるに違いない。
その時その時「○○の秋」と言われたら、『成る程そうですね』と反応しなければ世の中丸く行かないのが日本?
私などはどちらかというと白い目で見られる人種に入りそうです
例えば学生時代ですからもう30年以上昔ですが、丁度公害問題とか自然保護運動が言われ始めた頃です
それで、ある時そういう保護団体が催している会に出席した時のこと
啓蒙活動(嫌な表現ですが)的なフィルムが流れていまして・・・
ある農村で庭の柿の木・・・実を取る時に枝に数個柿の実を残しておく習慣だという話なんですが。
ナレーターは「野鳥のことを気遣った日本人の優しい習慣」(真冬にも鳥たちにも食べ物があるように・・・)と賛美するような・・・
マア日本人も昔から野鳥や自然に優しい国民であることを強調したかったのでしょうが・・・私にはこういうムリヤリ強調みたいな話は我慢できない
都合よく結びつけるような話の持って行き方が気になります
映写のあとディスカッションがあり
私は発言したかった・・・
「ここに集まっている人たちはどこかでグループのリーダー的に活動している人たちだと思います。ですから野鳥の保護に関して言うなら、情緒的・思いやりも大切ですが、科学的な根拠とか説明も大事ではないでしょうか。実際に枝先に残った柿の実がどの程度の役に立つのか。或いはどういう野鳥に有効なのか。それと柿の実を枝に残すということは冬の間の柿の木自身には良いことであるのか?或いは何か影響があるのか科学的根拠を・・・」
本当に発言したら、何だか石頭のトンチンカンな発言だと白い目で見られたかも知れませんねきっと
実際には挙手して発言しようとしたのですが同行の友人にきつく止められて実現しませんでしたが、もし発言したら友人もなにやら恥ずかしい思いをすることになったらしい・・・
「もしも・・・」起こらなかった出来事ですから、いまだに分かりません。
さて読書の秋ですが
読書のうちに入るのかどうか分かりませんが、先日TVで携帯小説というのを報道していました。
携帯電話のメールみたいに短いセンテンスの文章・・・イヤ文書というのだろうか? 何だかメモの羅列?
確かに新しい分野のモノだとは思うけれど、あれも小説の内でしょうか
確かに新しい何かではあるのでしょうね
但しキチンと区別はしないと
例えば「学生」という中に「中学生」「高校生」も含めてしまうような間違った使い方が積み重なるとそれが主流=正しいみたいになったり
「本が好き」と言う人がいて、よく聞くと「週刊誌」「月刊誌」「小説」などなど紙に活字が印刷されていて束になっていれば皆「本」だったり・・・流石に新聞はいくら厚くても本とは呼ばないでしょうが
私の学生時代はこういう区別が未だ厳然と(それ程ないか)残っていた時代だったような気がする・・・つまり大昔の学生だったと言うことか。
言葉の使い方も時の流れで変わって行くみたいに変わるのでしょうね
もっともその当時でも本来的な意味と使用されている使い方が食い違うものはありましたが・・・
例えば「抽象的」
絵画などの「抽象画」・・・転じてよく分からないこと、曖昧なことを「抽象的」と言う人が多い、これを誰が最初に言ったのか知りませんが「抽象的」と言ったのが間違いでしょうね。
もし言うとしたら「抽象画的」なら
だから「抽象」と言う言葉自体が誤解を受けているのですね。
訳の分からないことみたいに・・・実際は「物事の中から本質をつかみ出す」と言う意味ですから全く反対な使われ方
ところで今朝TVで描いた絵が「シュールな絵」と言われたと言うタレントが辞書で調べたらシュール=意味不明という意味もあるそうで
そういう意味では名前と中身は別と考えれば「抽象」も解決するのかも知れませんね
「優子」さんが優しくて、武男君が勇ましくなくてもいいわけですから・・・
さて相変わらず脱線しています
図書館で囲碁・将棋の戸棚の前に立ちますと、圧倒的に囲碁の本の方が、少ない
ここの蔵書(と呼べるほど立派な図書館ではありませんが)では比率は1:2くらいに少ない。
勿論ここに在る本は囲碁界・将棋界の全ての出版物とはかけ離れていると思いますから、ここで見えることが正しいかどうかは分かりませんが・・・
何処が違うか見ると「布石」「定石」「詰碁」「寄せ」などのテクニックとか作戦に関するものはそれ程変わらないように思う・・・イヤ全体的に少ないか?
一番違うのが「エッセイとか」「棋士の記録」「棋士の日記・随筆」の類だろうか・・・
棋士にも個人情報とか私的な生活と公的活動は別だから、何でもかんでも話せばいいというものではありませんが、ファン・素人碁打ちにとっては憧れであるし特別な人たちがどんなことを考えているとか、どういう日常と非日常を過ごしているのか知りたいと考えるのです。
マア「普通の人と変わらない」と言う部分と「流石に棋士」というところがあるのでしょう?
現在活躍中の棋士では話に出てくる方々に差しさわりがある話はかけないとかの問題があるでしょうが・・・
「お稽古話」とか「呉清源」とか「囲碁を世界に」とか読ませていただきましたし
「実録囲碁講談」など中山先生のファンでもあるのですが・・・こういう本がもっとあっても良いのでは無いかと思うのです。
最近は棋士のブログなどあり、若手棋士がグループで書き込んでいるものがあります・・・それはそれで楽しく拝見させて戴いていますが、やはり「本」とは違うような気がします。
ジャンルは「日記」「随筆」「歴史」などなどあるとして「ブログ」とは違うでしょう
もっとも「そんなことを考える暇があったらもっと修行せい、渇ッ!!」
かもしれません。