本屋さんの囲碁コーナーの前では、「酷い陳列」「なおざりな品揃え」などと感じることが多いという話をしました。
別のことで気になっていることがあります。
先日寄った本屋だけだろうか?
囲碁のスペースは小さいので、それほどたくさんは並ばないのですが・・・入門書の占める割合が大きいような気がします。
全体の4分の1か5分の1・・・いや大きすぎるという話ではありません。
ある程度のスペースが確保されているということについてです。
これらの囲碁入門書あるいは初歩的な初級コースの本は誰が買うのでしょうか?
囲碁人口の減少・停滞、、、少しでも囲碁を広めたいetcと絡めて考えたいと思います。
私も「入門書」を買ったことがあります、そして自分の子供たちように「子供のための入門書」も買いました。
人に囲碁を伝える時、何をどのように教えたら良いのか自信が無いので、まず自分の中で整理する必要があります。
そういう、伝えるべきことを要領よく纏めて、順序良く教えるために本は役に立つと考えたのと、その本を子供に与えて子供が自分でも繰り返し読めるように・・・
マア私については失敗しました
最大の原因は普段の生活する中で、囲碁の楽しさを伝えられなかったからでしょう。
ゲームだけを性急に伝えようとした嫌いもある。
さて、「入門書」は私同様に「教えたい人」が買う本だろうか?
まさか買い与えて、押し付けっぱなしということは無いでしょうが
それとも、いろんなお稽古事やカルチャー活動の中で「囲碁でも憶えてみようかしら」と手にとって、とりあえず購入するための本なのだろうか?
マアどちらもありそうな気はしますが、後者はかなり少ないと思う
もしそうだとするなら、「入門書」は教えるためのテキストであり、「教わったことを整理して復習するための本」という位置づけでしょうか
私の経験で言うと、中級以上の人に教えるのは比較的簡単とはいえませんが、気は楽です
これは外国に行って言葉が通じるような安心感というか、あるいは初級者が努力くして中級まで来たというか・それなりの実績とか意欲があるわけですから話しがしやすい。
ところが初心者は難しいですね
「上手く説明が出来ないとせっかくの”お客さん”に逃げられてしまう」という強迫観念があります。
それと「何処がわからないのかが解らない」みたいな焦り
更にそういうこちらの動揺とか、自信の無さ、あるいは心配を見せてしまうと、そのこと自体が相手の人にはプレッシャーになるような・・・
よくビジネス研修などでは「馬を水辺に連れて行くことは出来るが、馬に水を飲ませることは出来ない」・・・みたいなことが言われます
周囲の誰彼かまわず、捕まえては囲碁の素晴らしさを講釈してもななかなか”お客さん”は見つからないだろうし、落語の「寝床」調では出来ないし。
私に「碁を教わりたい」などと言ってくれる人がいたら、自分から「水を飲みたい」といってくれているわけで、張り切るのだけれど、どうも空回りしそうな。
囲碁の知識が白紙に近い人には、囲碁が勝負事だといってもどのように勝敗が決まるのか皆目見当がつかないでしょうね。
「囲碁は面白いよー、TVゲームなど問題にならない」と話しても、囲碁のゲームとしての目的、勝敗の決まり方、・・・何を争っているのかを説明できないと面白さを説明したことにはならないでしょう。
ここが難しいところですね
長初心者には「目」というもの、「生き死に」を理解して貰い、そこで「地」という概念を伝え、ゲームの目的を話す・・・
基本的な知識が無くてはゲームを理解できないでしょうし、ましてや面白みなど解らないでしょう。
だから「ゲームを憶えればきっと、囲碁の楽しさがわかるはずだ」という期待感を持ち続けられる人は続き・・・「私には無理」「向いていない」と思う人はやめてしまうのだろうか?
いろんなゲーム、スポーツの中で囲碁は取っ付きにくいゲームでしょうね
はまり込んでしまえば、これ程奥の深いものは無いのですが
さて初めに戻って「入門書」です
囲碁を教えたい人が「入門書」を買う・・・もしかしたらこれは重要なキーポイントでは無いでしょうか。
そして私がそうですが、「入門書」は買ったけっれど目的を達成できずに失敗している・・・この事実も
要するに、「入門書」として要領よく纏められたとしても、「人が人に伝える」とか「人にあった教え方」とか進行のスピードとかあるでしょう。
つまり教える人の「教え方」も大きな問題では無いでしょうか
「教育指導要領」があっても、教える教師によっても前々内容がちがうのと同じです
ですから教える人、教えたい人のレベルアップが問題
この場合のレベルアップとは単にその人に棋力では無いでしょう
”生徒”の応じて必要なことを適切な方法で伝えられる・・・そして意欲を引き出せること
これは必ずしも高段者が上手いとは言えないところもある。
勿論プロの先生が中心で進められればいいのだけれど、先生の数に限度はあるし、身近で教えてくれるボランティア的な人の存在が必要でしょう。
ですから、そういう面での底上げというか強化の為に「教える人のためのカリキュラム」とか「教える人の為の教科書」「リーダーのための研修」などが望まれます。
「囲碁祭り」や「囲碁大会」も大事です・・・”現”囲碁ファンに楽しんでもらうために
そしてこういうイベントが、新たなファン層を発掘する機会でありますように
更にそういうファンをキチンと受け止める受け皿を作るために。
プロ棋士だけでは手が足りないでしょうし、棋院は入門者を増やす意味でもアマの力を使おうとは考えないのでしょうか?
棋院のカリキュラムで、「アマがアマを教えられるようになる講座」が出来たら面白いと思うのです。
「アマが教えると悪い癖がつく」とか、「ザルが分け分からないことを言っている」と哂っていても仕方ないと思うのです。
別のことで気になっていることがあります。
先日寄った本屋だけだろうか?
囲碁のスペースは小さいので、それほどたくさんは並ばないのですが・・・入門書の占める割合が大きいような気がします。
全体の4分の1か5分の1・・・いや大きすぎるという話ではありません。
ある程度のスペースが確保されているということについてです。
これらの囲碁入門書あるいは初歩的な初級コースの本は誰が買うのでしょうか?
囲碁人口の減少・停滞、、、少しでも囲碁を広めたいetcと絡めて考えたいと思います。
私も「入門書」を買ったことがあります、そして自分の子供たちように「子供のための入門書」も買いました。
人に囲碁を伝える時、何をどのように教えたら良いのか自信が無いので、まず自分の中で整理する必要があります。
そういう、伝えるべきことを要領よく纏めて、順序良く教えるために本は役に立つと考えたのと、その本を子供に与えて子供が自分でも繰り返し読めるように・・・
マア私については失敗しました
最大の原因は普段の生活する中で、囲碁の楽しさを伝えられなかったからでしょう。
ゲームだけを性急に伝えようとした嫌いもある。
さて、「入門書」は私同様に「教えたい人」が買う本だろうか?
まさか買い与えて、押し付けっぱなしということは無いでしょうが
それとも、いろんなお稽古事やカルチャー活動の中で「囲碁でも憶えてみようかしら」と手にとって、とりあえず購入するための本なのだろうか?
マアどちらもありそうな気はしますが、後者はかなり少ないと思う
もしそうだとするなら、「入門書」は教えるためのテキストであり、「教わったことを整理して復習するための本」という位置づけでしょうか
私の経験で言うと、中級以上の人に教えるのは比較的簡単とはいえませんが、気は楽です
これは外国に行って言葉が通じるような安心感というか、あるいは初級者が努力くして中級まで来たというか・それなりの実績とか意欲があるわけですから話しがしやすい。
ところが初心者は難しいですね
「上手く説明が出来ないとせっかくの”お客さん”に逃げられてしまう」という強迫観念があります。
それと「何処がわからないのかが解らない」みたいな焦り
更にそういうこちらの動揺とか、自信の無さ、あるいは心配を見せてしまうと、そのこと自体が相手の人にはプレッシャーになるような・・・
よくビジネス研修などでは「馬を水辺に連れて行くことは出来るが、馬に水を飲ませることは出来ない」・・・みたいなことが言われます
周囲の誰彼かまわず、捕まえては囲碁の素晴らしさを講釈してもななかなか”お客さん”は見つからないだろうし、落語の「寝床」調では出来ないし。
私に「碁を教わりたい」などと言ってくれる人がいたら、自分から「水を飲みたい」といってくれているわけで、張り切るのだけれど、どうも空回りしそうな。
囲碁の知識が白紙に近い人には、囲碁が勝負事だといってもどのように勝敗が決まるのか皆目見当がつかないでしょうね。
「囲碁は面白いよー、TVゲームなど問題にならない」と話しても、囲碁のゲームとしての目的、勝敗の決まり方、・・・何を争っているのかを説明できないと面白さを説明したことにはならないでしょう。
ここが難しいところですね
長初心者には「目」というもの、「生き死に」を理解して貰い、そこで「地」という概念を伝え、ゲームの目的を話す・・・
基本的な知識が無くてはゲームを理解できないでしょうし、ましてや面白みなど解らないでしょう。
だから「ゲームを憶えればきっと、囲碁の楽しさがわかるはずだ」という期待感を持ち続けられる人は続き・・・「私には無理」「向いていない」と思う人はやめてしまうのだろうか?
いろんなゲーム、スポーツの中で囲碁は取っ付きにくいゲームでしょうね
はまり込んでしまえば、これ程奥の深いものは無いのですが
さて初めに戻って「入門書」です
囲碁を教えたい人が「入門書」を買う・・・もしかしたらこれは重要なキーポイントでは無いでしょうか。
そして私がそうですが、「入門書」は買ったけっれど目的を達成できずに失敗している・・・この事実も
要するに、「入門書」として要領よく纏められたとしても、「人が人に伝える」とか「人にあった教え方」とか進行のスピードとかあるでしょう。
つまり教える人の「教え方」も大きな問題では無いでしょうか
「教育指導要領」があっても、教える教師によっても前々内容がちがうのと同じです
ですから教える人、教えたい人のレベルアップが問題
この場合のレベルアップとは単にその人に棋力では無いでしょう
”生徒”の応じて必要なことを適切な方法で伝えられる・・・そして意欲を引き出せること
これは必ずしも高段者が上手いとは言えないところもある。
勿論プロの先生が中心で進められればいいのだけれど、先生の数に限度はあるし、身近で教えてくれるボランティア的な人の存在が必要でしょう。
ですから、そういう面での底上げというか強化の為に「教える人のためのカリキュラム」とか「教える人の為の教科書」「リーダーのための研修」などが望まれます。
「囲碁祭り」や「囲碁大会」も大事です・・・”現”囲碁ファンに楽しんでもらうために
そしてこういうイベントが、新たなファン層を発掘する機会でありますように
更にそういうファンをキチンと受け止める受け皿を作るために。
プロ棋士だけでは手が足りないでしょうし、棋院は入門者を増やす意味でもアマの力を使おうとは考えないのでしょうか?
棋院のカリキュラムで、「アマがアマを教えられるようになる講座」が出来たら面白いと思うのです。
「アマが教えると悪い癖がつく」とか、「ザルが分け分からないことを言っている」と哂っていても仕方ないと思うのです。