②日本人が知らない米メディアの実態 :240215情報
昨日からの続きです。
■3.ユダヤ人大量虐殺報道を抑制したニューヨーク・タイムズ紙
しかし、メディアの暴走は今に始まったことではなく、アメリカの一部のメディアでは昔からあったことだと、この『失われた報道の自由』は記しています。違いは、昔は公正中立的な報道の振りをしていたのが、今やその振りさえかなぐり捨てた、というだけの事のようです。
たとえば、ホロコースト研究者のデイビッド・S・ワイマン博士は著書『ユダヤ人は見捨てられた』の中で、こう書いています。
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(ホロコーストが行われている間)ヨーロッパ系ユダヤ人の惨状に対するアメリカの一般市民の反応は、ほかの国の人々と比べて薄かった。それは多く(おそらく大部分)のアメリカ人が、1944年以降までヒトラーのユダヤ大絶滅計画のことを知らなかったからだ。
・・・なぜならマスメディアは、何百万ものユダヤ人の組織的な抹殺を小さなニュースであるかのように扱ったからだった。[レヴィン、2501]
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アメリカ政府は1942年12月の段階で、少なくとも200万人のユダヤ人が殺害されていることを把握していました。しかし、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領は、週2回の記者会見でほぼ1年後まで、このホロコーストに関して一言も発言しませんでした。
1943年秋にはルーズベルト大統領は、チャーチル、スターリンとともに、ナチスの残虐行為を批難する宣言を出しましたが、その中でもユダヤ人虐殺については触れませんでした。
なぜでしょう? 私見ですが、当時のルーズベルト政権内部には多くの共産主義者が巣くっており、日本の北方領土や東欧、バルト三国のソ連占領を後押ししました。米国民がホロコーストを知ったら、世論はアメリカ政府にもっと強硬に対独戦を進めるよう圧力をかけ、結果的にソ連が東欧を支配する時間的余裕を与えなかったかも知れません。
この仮説の当否は別として、ルーズベルト政権下で戦争情報局が、報道機関にホロコーストを報じないよう要望したのは事実のようです。[レヴィン、2548]
その方針に従って、ニューヨーク・タイムズ紙の発行人アーサー・ヘイズ・サルツバーガーは、ユダヤ人大量虐殺のニュースを繰り返し無視したり、握りつぶしたりしました。
サルツバーガー自身もドイツ系ユダヤ人でしたが、当時のアメリカ国内のユダヤ人リーダーたちと反目し、パレスチナの地にユダヤ人国家(後のイスラエル)を建設することに激しく反対していました。
当時のニューヨーク・タイムズ紙は国内世論を作る担い手として大きな影響力を持っていました。そのニューヨーク・タイムズ紙が、しかも発行人がユダヤ人なのに、ホロコーストを大きく取り上げなかったことで、他社のジャーナリストや政治家たちも、この問題で立ち上がろうとはしませんでした。
■4.ウクライナ大量餓死も報道しなかった
ニューヨーク・タイムズ紙は、1932年から翌年にかけてスターリンによるウクライナ大量餓死についても同様に隠蔽しています。
スターリンは工業化のために欧米から機械設備を購入する外貨を必要としており、穀倉地帯ウクライナの穀物を強制的に取り立てました。
ウクライナ人は独立心が強く、また共産主義体制で無理矢理、集団農場で働くことに農民が反対していた事も一因でした。邪魔をする者は国家の敵として、5千人以上が死刑になりました。
飢餓が始まっても、スターリンは農民が土地から離れないよう軍隊を送り込みました。この結果、数百万人の規模で餓死者が出たとされています。
これらはイギリスやフランスなどの新聞では広く報道されました。しかし、当時のニューヨーク・タイムズのモスクワ支局長ウォルター・デュランティは飢餓の事実を否定したのです。
デュランティは、ロシア革命やスターリンの恐怖政治を礼賛していました。飢饉は1933年の夏にピークに達しましたが、デュランティは9月17日に次のような記事を書いています。
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ウクライナの中心部を車で200マイル走ってきたばかりだ。すばらしい豊作で、いまや飢饉の噂はくだらない冗談のようだ。どこに行っても、共産党員も役人も田舎の農民も、会う人ごとに口を揃えてこう言う。『もう大丈夫だ。冬に向けても安心だ。すぐに収穫できる穀物がまだたくさんある』
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デュランティは個人的には「飢饉の犠牲者を約700万人と見積もっている」と漏らしていたそうです。
ニューヨーク・タイムズ紙の上層部は、彼がスターリン主義のプロパガンダを書いているのではと疑っていましたが、何もしませんでした。
後の編集次長のフレデリック・T・バーチャルはデュランティを異動させようと進言しましたが、上層部から却下されました。
フランクリン・ルーズベルトは大統領候補時代に、ソビエト連邦を正式に国家として承認するかどうかの議論にデュランティを加え、1933年に国家承認をすると、彼を調印式に参加させています。
当時、反共思想の強かったアメリカにおいて、数百万人規模の大量餓死が報じられていたら、その最中に国家承認など到底できなかったでしょう。ここにも、ニューヨーク・タイムズ紙がルーズベルト大統領の親ソ政策に密着した姿勢が窺えます。
(つづく)
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