どうしても、どくとるマンボウと結び付けたいので題を変えました。
書いたはずのものが投稿されていない???のですが、アクセス数と共に風前の灯火かな?
写真の話を書き始める(写真夜話の続きです)
初めの頃は、写真は本を読んで学んだので、最初から最後まで「自己流」である。
それが良いことだとは思わないが、出来上がりをお客さんが満足したり喜んだりしてくれれば
それでいいのだと 言い聞かせていたが、頓珍漢な分あーだこーだと色々と試したり、練習したり
していた。そもそもおんぼろスタジオがあった場所は、東京近郊で著名人やタレント、文士やらが
多く住んでいるところだった場所で一応は店舗の体裁だったので、不思議とたまり場的な
役目を果たしていた。その為私が大学入学(2回目の)した時にいろんな方々からお祝いを
頂いた。さらに、写真に専念すると決めてから、狭いスタジオを自分で壁や天井電気の配線など
を自分でぶっ壊して作りなおした。なんといっても、壁は土壁だったくらいだから、これを
剥がして木組みをしなおして、配線も使用できるワット数を上げるために5Cという規格のコード
にした。ちゃんと石膏ボードを貼ってその上から壁紙を貼ったのだが、それを一人でやっていると
誰かしらその道のプロが手伝ってくれたりしたので、助かった。
もともとは、旧態然としたスタジオだったようなのであるが、天井をぶっ壊したら、機材が少し
あった。最初の頃にいろんな撮影の練習を自分なりに試してみていたが、それは外から見えた
ようで、「ここで撮影しているんですか?」というある意味宣伝になったと思う。
わかりやすいタングステンライティングを主にしていたが、最初の業務用のスタジオ用の
ストロボ電源とストロボヘッド3個等合わせて70万は、現像所の人の好意で自由分割で
無金利の信用買いにしてくれたのだった。ライトバンクは十数万もしたので最初は傘を
使い、本当に基本的なライティングをしていた。
証明写真撮影 なんていう看板を作ってみて、一人ひとりを大事に撮影していた。
結果として、一日で20~30人を撮影していたので、ストロボの代金は2回で払い終えた。
今の自分と比較するしかないが、多分別人のように一生懸命だったのだろう。
だから、様々な人々が有形無形に支えられていたのだろう
続くに違いない