腰が90度に曲がり杖をついて歩いている老婆、私は気になって仕方がない。
私の病は進行型であり、それでも買い物の帰り道に足が動かなくなったことが
何度もあった。50代の私がヘルパーを使えることはイコール病状が悪いという事
でもあるが、老婆はいつも一人だから独居なのだろう。
ちょっと前なら 荷物でももって付き添うという事を躊躇せずにしていたと思うが
今は 横断歩道がないところを渡るので,サングラスをかけている私がおおぎょうに
杖をついてひそかに一緒に渡るぐらいだ。ひそかにの理由は、いつもそうできないから
なのだ。最近の車は お構いなしですっ飛ばしてくるから・・。
役所の福祉課に連絡をしてあるが、住所がわからないので、町内会長と民生委員
等にも話をしてある。かなり以前に「おにいちゃん鍵あけてくれないか」と
頼まれた老婆は やっとヘルパーがついた。
元気で歳を重ねていくのが理想だと思うのだが、突き詰めていくとこういう
形になる場合も多々ある。終活なんていう言葉がちやほやされているが
そんなおままごとができるのは 限られた人だろうと思う。
「死ぬ為に生きる」そんな事を考えてしまう。頑張って歩いて来ても重たいものは
買えないだろう、でも生きていく為には買い物をしなければならないという
現実と話し相手もいないとしたら、日本の抱えている膿みを押し付けている
そんな感覚がある。そもそも行政の福祉の制度を利用できないのか?
それ以前に制度がどうなっているのか知らないのかもしれない。
長生きしてほしいと想うが 万が一の時は「孤独死」となるに違いない。
或いは 急に子供だの孫だの親戚がでてきて遺産争い?とか・・・。
ふと「無知の涙」を書いた殺人犯のことが頭をよぎる。今でも判例主義の基準に
なっている永山則夫(死刑執行)無知は法律で言えば罪だそうだ。
死刑が制度である以上 客観的に悔い改めたと識者も認めていたのだが、
犯した殺人は事実である。