一昨日の大河ドラマ「江」では石田三成決起を聞いた家康が軍を西へ反転させて関ヶ原へ向かうお話でした。
家康は豊臣恩顧の加藤清正らの軍を率いて東海道を進み、秀忠は徳川家本隊を率いて中山道を進みました。中山道を進んだ秀忠は途中、信州上田城の真田氏との戦いに時間を空費して、肝心の関ヶ原の合戦に間に合わなかったというのが通説ですし、番組でもそのように描かれていました。
ところが、この件についてはいくつか疑問があります。
1.なぜ家康は軍勢を二手に分ける必要があったのか?
よいタイミングで落ち合うのが難しくなる東海道・中山道二分割作戦よりも、敵を挟み撃ちにするならば敵の近くまで一緒に行ってから軍勢を二手に分ける方がはるかに安全・確実だし、状況変化への対応力もあったはず。
2.なぜ秀忠は上田城攻めにこだわったのか?
真田氏は小勢であり進軍の邪魔にはならなかった。そんな小勢をつぶすことより上方へ遅れずに到着することの方がはるかに重要だった。そのことを秀忠自身も十二分にわかっていたはずだし、徳川家のそうそうたる重臣たちがわからないはずはない。
3.なぜ誰も責任を取らされなかったのか?
関ヶ原に遅参した秀忠は家康からきつく叱責されたとのことだが、誰も切腹していないし、秀忠はその後将軍職を継承しており、重大な失策という認識はなかったとみられる。
拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書きましたが、ここに家康の秘策があったのです。
それは「秀忠にわざと遅参させる」ことです。
これも世の中で今まで誰も言ったことのないことですので即座に「ありえない!」とおっしゃる方が多いのですが、もし、家康が次のように考えていたとしたら、どうですか?
・東海道を進む家康の軍勢だけで十分西軍に勝利できる。
・西軍に勝利した後の権力を万全なものにするためには徳川家本隊を無傷で温存したい。
・万一、家康の軍勢が関ヶ原で敗れたとしても、温存した徳川家本隊が最終的に西軍に勝利する。
みんな秀吉にだまされたように家康にもだまされているのではありませんか?
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家康は豊臣恩顧の加藤清正らの軍を率いて東海道を進み、秀忠は徳川家本隊を率いて中山道を進みました。中山道を進んだ秀忠は途中、信州上田城の真田氏との戦いに時間を空費して、肝心の関ヶ原の合戦に間に合わなかったというのが通説ですし、番組でもそのように描かれていました。
ところが、この件についてはいくつか疑問があります。
1.なぜ家康は軍勢を二手に分ける必要があったのか?
よいタイミングで落ち合うのが難しくなる東海道・中山道二分割作戦よりも、敵を挟み撃ちにするならば敵の近くまで一緒に行ってから軍勢を二手に分ける方がはるかに安全・確実だし、状況変化への対応力もあったはず。
2.なぜ秀忠は上田城攻めにこだわったのか?
真田氏は小勢であり進軍の邪魔にはならなかった。そんな小勢をつぶすことより上方へ遅れずに到着することの方がはるかに重要だった。そのことを秀忠自身も十二分にわかっていたはずだし、徳川家のそうそうたる重臣たちがわからないはずはない。
3.なぜ誰も責任を取らされなかったのか?
関ヶ原に遅参した秀忠は家康からきつく叱責されたとのことだが、誰も切腹していないし、秀忠はその後将軍職を継承しており、重大な失策という認識はなかったとみられる。
拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書きましたが、ここに家康の秘策があったのです。
それは「秀忠にわざと遅参させる」ことです。
これも世の中で今まで誰も言ったことのないことですので即座に「ありえない!」とおっしゃる方が多いのですが、もし、家康が次のように考えていたとしたら、どうですか?
・東海道を進む家康の軍勢だけで十分西軍に勝利できる。
・西軍に勝利した後の権力を万全なものにするためには徳川家本隊を無傷で温存したい。
・万一、家康の軍勢が関ヶ原で敗れたとしても、温存した徳川家本隊が最終的に西軍に勝利する。
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さて、私は単なる歴史好きですが、秀忠遅参の謎の3点について以下のように考えました。
1.なぜ家康は軍勢を二手に分ける必要があったのか?
⇒東海道だけだと、西軍の一部が中仙道を通って江戸を襲撃したり、上杉や真田(佐竹も?)と連携することを恐れたということが考えられるのではと思いました。
2.なぜ秀忠は上田城攻めにこだわったのか?
⇒上記1.の理由で軍隊を分けた以上、中仙道沿いの抵抗勢力(真田だけかもしれませんが)をけん制もしくは落としたかったのではないでしょうか?また、うまく攻略できなかったらあきらめてますので、それほどはこだわっていなかったのではとも思います。
3.なぜ誰も責任を取らされなかったのか?
⇒後世の私たちからすると、真田に手間取った結果、関が原に遅参したとなりますが、そもそも、東軍が江戸を出発した時に、東西両軍の間で、9月15日に関が原で合戦をやろうという約束は当然なく、どこで合戦になるかは大体は予想してたかもしれませんが、何日どれくらいの規模で始まり、いつまでかかるかは誰にも分からなかったことだと思います。つまり、結果的には「関が原に遅参」となりますが、例えば、長期間に渡って長引くというのが両軍の大方の予想であり、その予想に反して雌雄を決する合戦がいきなり行われ、かつ、それも半日であっけなく決着が付いてしまったということは考えられないでしょうか。そのため、家康としては、真田にもたついた分遅くなったことをふがいないとして問題としたとしても、予想外に早く始まってしまい、かつ早く終わった大戦(結果的に天下分け目の関が原)に遅れたことは、それほど問題視されなかったのではないでしょうか。
(個人的には、結果的には東軍が余裕で勝ったように思われていますが、それは徳川史観の影響が大きく、白峰旬氏の「新『関ヶ原合戦』論」にありますように、西軍側もなかなか頑張っていたのではと思っています)
以上