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「なぜ生の声には、作品の本質がのせられるか」 幸田 弘子

2013年11月27日 00時16分12秒 | 朗読・発声
 「朗読の楽しみ」 幸田 弘子 著   光文社  2002年

 「なぜ生の声には、作品の本質がのせられるか」 P-32

 生の声には、作品の本質が盛り込まれています。なぜでしょう。

 説明はしにくいのですが、生の声からは、作品そのものがもっているはずの微妙な息づかいや間、音色のこまかい綾のようなもの、そして何よりも、作品本来が生まれたときにあった、<生き生きとした感じ>が伝わるからではないか、と思うのです。
同時にそれは、作者がそれを書いたときの、生き生きとした感情なのではないかと思います。

 けれども、マイクを使うと、どうしてもそれらの多くが消されてしまう。
人間の耳はすごくて、たとえ数値にあらわされなくても、一目で(一聴で)、生の声と録音された声を聞き分けますね。
音楽が、いい例になるかもしれません。
生演奏とマイクを通したものとでは、どんなにいい装置を使っても、差がついてしまうそうです。

 もうひとつ、クラシック音楽とポピュラー音楽の違いを考えてみるのも、ヒントになるでしょう。
クラシックのリサイタルでは、基本的にマイクを使いません。
どんなに大きな会場でも、ナマの楽器、生の声で演奏するのが基本です。

 これに対してポピュラー音楽では、歌手や演奏者が装置を用い、音声処理を行ったものを聞かせます。
この違いはどこからくるのか。

 ポップスは聞くべきもの。クラシックは作品を聞くべきもの。

 想像にしかすぎませんが、ごくかんたんにいえば、この差が大きいのではないでしょうか。
クラシック音楽は、生の声、楽器を使うことによって、作曲家がその作品にこめた本質的な意味や感情を伝える。ポップスは、あくまで歌手中心・・・・・。

 私も、生の声で演じる自分の舞台で、ぐっと身を乗り出して聞いてくださる観客との一体化を、何度も味わっています。
それは同時に、作品そのものが聞き手にきちんと伝わったという一体感でもあるのです。

 読むものと聞くものの息がぴったり合い、共鳴する瞬間。
そこに作品そのものが出現する。
まだ理想には遠いのですが、つねにそうしたものが演じられるよう、心がけているつもりです。

よけいなことと言われるかもしれませんが、何かの司会やスピーチをなさる機会があったら、マイクなしでできる小さな会場では、生でおやりになることをおすすめします。

 生のほうが、伝わるものもずっと多いのです。
私は、最初からマイクの使用があたりまえになっている今の風潮は、少しおかしいと思います。