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「死の自己決定権のゆくえ」 児玉 真美

2014年04月12日 00時55分39秒 | 健康・老いについて
 「死の自己決定権のゆくえ」  児玉 真美 著  大月書店 2013年

 「日本の尊厳死議論」 P-13

 前略

 進行する病気の痛苦にまともに対応してもらえず、身体が受け付けなくなっているのに点滴で
全身を水浸しにされたり、もう余命いくばくもないというのに人工呼吸器と経管栄養で
全身チューブだらけにされて、苦しいだけの生をいたずらに引き伸ばされたり、いまわの際にも、
なお家族が部屋から追い出されて肋骨が折れるほどの心肺蘇生を強行されたり・・・。
そんな病院でのがん死の悲惨さが批判的に語られ始めたのは、日本にホスピスができ始めた頃では
なかったろうか。

 中略

 それでもまだ、私たち一般人は怯えている。
病院で死ぬことを安らかな体験にしようという機運が日本中に高まっているように思えた
90年代よりも、さらに怯えていると言ってもいいかもしれない。
書店に行くと、「死」や「死ぬこと」をテーマにした本がずらりと並んでいる。
そこでは死に方にも、尊厳死、平穏死、自然死、満足死など、さまざまな名前が付けられている。
まるで「いかに死ぬ(死なせる)べきか」が国民的な関心事になったかのようだ。
それらの本によると、科学とテクノロジーが進み、医療が高度に専門化されたおかげで、
人は簡単に死ななくなった。
そのため、今なお「死は医療の敗北」と捉える延命至上主義の医師らに機械的に胃ろうを作られ、
人工呼吸器をつけられて、すでに意識すらないと見える寝たきりの高齢者が、
病院にはずらりと並んでしまった。
そんな姿でただ肉体として生かされていることに、人間としての尊厳があるだろうか・・・。
それらの本は、そう問いかける。
それに呼応するかのように、人びとが「延命治療はしないでほしい」
「余計なことは一切せず尊厳のある平穏な死を」と自分の思いを語る声にあちこちで触れるようにも
なった。

 自分がいずれ死ななければならないことを考えると、私もやはり尊厳ある死を迎えたい。
その死はなるべく苦しみのない、穏やかなものであってほしい。
もうどうしたって間もなく死に向かうことを止められないのに、それでも「治療」だといって
痛いことや苦しいことを無理やりやられてしまうなんて、想像しただけで耐え難い。
そんなのは勘弁してほしい。

 「家族がさんざん苦しみ抜いて死んだから、自分はあんな死に方をしたくない」という人の話も
いろいろ聞いてきた。
友人の一人は、父親が亡くなる前の数日間あまりに痛みに苦しむので、鎮痛剤を増やしてほしいと
求めたところ、看護師に「他の患者さんはみんなこれくらいは我慢していますよ」と突っぱねられた、という。
のたうち苦しんでいる父親を「お父さん、薬は増やせないんだって。がまんして」となだめながら、
じっと付き添っているしかなかったつらさが、今でも彼女のトラウマになっている。
自分の愛する人が目の前で痛みにもがいているのに、それをどうしてあげることもできないのは、
本当に切なく、身もだえするほどやりきれないことだ。
家族は、愛する人の痛みをそのあいだずっと、我が身に引き受けて一緒に耐えているしかない。

 後略

 児玉 真美 1956年生まれ、広島県在住。京都大学卒業。米国カンザス大学にてマスター取得。
英語の教師(高校、大学)として勤務の後、現在、翻訳・著述業。
長女(現在25才)に重症心身障害がある。2007年からブログで世界の情報を発信している。