「はだかのいのち」 障害児のこころ、人間のこころ 高谷 清 著 大月書店 1997年
はじめに P-5
前略
なお、この本の標題である「はだかのいのち」というのは次のような意味でつけた。
心身とも重い障害児者は、人間としての「付加価値」が何もないようにみえる。
自分で移動さえできず、しゃべれず、理解力はきわめて低く、生きていくために全面的に他の人の助けが必要である。
人間が「いのち」以外の「付加価値」で価値評価されるとしたら、彼らは成人しても労働能力はないし、学力・知力やスポーツ能力もない。
のみならず人の全面的な介助なしには生きられない彼らは「価値ゼロ」である。
彼らにあるのは「いのち」そのものだけである。
「いのち」しかもっていないのだから、彼らが大事にされるということや、だれもがひとつずつもっている「いのち」が大事にされるということであり、彼らが認められないとしたら「いのち」が認められないということになる。
一見付加価値のない彼らの存在を「はだかのいのち」と表現した。
「いのち」というものはもともとはだかである。
だれも服を着たり価値をつけて生まれてくるのではない。
そしてこの「はだかのいのち」は一見分からないが、実に深く広いものを内包している。
しかし今、いのちに付加価値をつけたり、順序をつけたりする風潮が強い。
そのことに対して「いのち」そのものの無限の深さと広さと、そして「光」と不可思議さに少しでもふれることができればと思っている。
本書は「いのち」が大事にされることを心から願って書かれたものである。
1997年1月 高谷 清 重症心身障害児施設・第一びわこ学園園長、小児科医師
はじめに P-5
前略
なお、この本の標題である「はだかのいのち」というのは次のような意味でつけた。
心身とも重い障害児者は、人間としての「付加価値」が何もないようにみえる。
自分で移動さえできず、しゃべれず、理解力はきわめて低く、生きていくために全面的に他の人の助けが必要である。
人間が「いのち」以外の「付加価値」で価値評価されるとしたら、彼らは成人しても労働能力はないし、学力・知力やスポーツ能力もない。
のみならず人の全面的な介助なしには生きられない彼らは「価値ゼロ」である。
彼らにあるのは「いのち」そのものだけである。
「いのち」しかもっていないのだから、彼らが大事にされるということや、だれもがひとつずつもっている「いのち」が大事にされるということであり、彼らが認められないとしたら「いのち」が認められないということになる。
一見付加価値のない彼らの存在を「はだかのいのち」と表現した。
「いのち」というものはもともとはだかである。
だれも服を着たり価値をつけて生まれてくるのではない。
そしてこの「はだかのいのち」は一見分からないが、実に深く広いものを内包している。
しかし今、いのちに付加価値をつけたり、順序をつけたりする風潮が強い。
そのことに対して「いのち」そのものの無限の深さと広さと、そして「光」と不可思議さに少しでもふれることができればと思っている。
本書は「いのち」が大事にされることを心から願って書かれたものである。
1997年1月 高谷 清 重症心身障害児施設・第一びわこ学園園長、小児科医師