民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「青山 二郎」 白洲 正子

2014年04月20日 00時05分52秒 | 雑学知識
 「美は匠にあり」  白洲 正子 著  平凡社  2004年

 「青山 二郎」 余白の人生 P-184

 青山二郎の解説を頼まれたが、彼は解説不可能な人間である。
 たとえば美術品でも、言葉で説明できるようなものは買わないでよろしい。
そういうものを彼は「鑑賞陶器」と呼んでいたが、ひと目見て美しいとわかるようなものは、
写真で済ましておけば事は足りる。
或いは博物館のガラス越しで眺めていればいい。
一流のものと承知していても、わざわざ自分で持ってみる必要はないというのである。

 では、どういうものが彼の心をとらえたかといえば、ぞっこん惚れこんで、自分の物にして、
いっしょに暮らして付き合ってみなければわからないもの、
外から眺めているだけでは心の底から納得できないもののみであった。

 中略

 「優れた画家が、美を描いた事はない。優れた詩人が、美を歌ったことはない。
それは描くものではなく、歌い得るものでもない。
美はそれを観たものの発見である。創作である」

 この言葉は重要である。美とは本来ありもしないものなのだ。
もしあるとすればそれを発見した個人の中にある。
芸術家はたしかに美しいものを作ろうとするが、
それは美しいものなのであって、美そのものではない。
そんなことを頭の隅っこで考えながら仕事をしても、美しいものなんか出来っこない。
一つのことに集中し、工夫をこらしていれば、よけいなことを考える暇はない筈である。
ずい分下手な説明だが、何もかも忘れて一心に仕事に打ち込んでいる人なら、
こんなことは自明のことで、人に語れるものではないだろう。

 小林秀雄は『当麻』の中の世阿弥の「花」についてこういった。

 「美しい花がある。花の美しさといふ様なものはない」

 それと同じことなのである。

 後略