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「数学者の休憩時間」 藤原 正彦

2015年04月24日 00時53分44秒 | エッセイ(模範)
 「数学者の休憩時間」 藤原 正彦 新潮文庫 1993年(平成5年)

 男のルネサンス 9 P-162

 近ごろ、新人類と呼ばれる世代のことがよく話題にのぼる。彼らは従来の価値観にしばられない自由な発想や行動をするから注目を浴びるのだろう。旧人類はあっけに取られているものの、大概は若さへのコンプレックスからか、彼らを積極的に評価することで、理解ある大人ぶりを示している。
 読書離れをメディア革命の一現象と当然視したり、努力を嫌う傾向を貿易摩擦解消の決め手のごとく言ったり、物事をじっくり考えない時勢を感性の時代と持ち上げたりする。
 しかし、書物より映像に傾斜し、古典や伝統を軽視し、ナウいものにだけ触覚をめぐらせる、といった風潮を新しい価値観などと言わない方がよい。放蕩ぶりを露骨に描写しただけの作品を新しい文学とほめそやしたり、年老いた親をかえりみない息子や嫁を現代流と認めたり、赤児と冷凍した母乳を親に預け二週間ものハワイ旅行へ行くタレントを新感覚と呼んだりしない方がよい。
 実は新人類の特徴と言われるものの多くは、単なる無知、無経験、無責任などに帰せられる。これはどの時代の若者にも共通で、我々もさんざん言われたものである。
 真に憂うべきは、情緒力不足が目につくことである。じっくり考えるのも、歯を食いしばって頑張るのも、他人の不幸に敏感なのも、故郷や古きものを懐かしむのも、みな情緒の力による。
 私の育った戦後は、だれも彼もが貧乏だった。私の母は夜遅くまで洋裁の内職をして、なんとか生活費を捻出していた。ようやく買えた一日一本の牛乳は、兄弟三人で分けて飲んだ。クラスには、わずかな電車賃を払えぬため遠足は必ず欠席する者、昼食時間になると教室をそっとぬけ出し砂場で遊んでいる者などもいた。身の回りの貧困を通してわれわれは多くを学んだ。
 また自然の中で終日遊んだことや読書に胸を躍らせたことも情緒育成に役立ったと思う。その後、日本はかつてなく豊かになり、自然は都会から消え、読書はテレビやマンガなどの映像文化にとって代わられた。このような変化の激しさに目を奪われ、情緒の視点を教育の中枢に置かなかったのは、大きな失敗ではなかったか。
 先日そんなことを学生に話したら、一人が、「愛国心も薄いから、少なくとも戦争を起こさない」と反論した。否(いな)。戦争を起こすのは愛国心ではない。日本の国を、山河を心から愛する人々が戦争を起こすはずがない。それだけの情緒力があれば、他国の人の同じ想いをも十分に汲めるからである。情緒力不足の人間こそ、国を滅ぼすのではないか。 
 長い戦争と貧困を涙の中で生き抜いてきた旧人類の、深い情緒力に打たれることは、私自身しばしばある。旧人類は自信をもってものの道と心を次世代に伝えるべきと思う。成人した青年を社会でしごき鍛え直すのは、主に男の役目である。旧人類の男たちの奮起猛攻が期待される。それに耐え、そこから何かを掴む者だけが時代を担う。それが歴史であり、生物の摂理と思う。

 藤原正彦 1943年生まれ、数学者、エッセイスト。父は作家、新田次郎。