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「恋欲」は年をとらない その2 岩橋 那枝 

2015年07月29日 00時26分11秒 | エッセイ(模範)
 「日本語のこころ」 2000年版ベスト・エッセイ集  日本エッセイスト・クラブ編 

 「恋欲」は年をとらない その2 岩橋 那枝 


 いつだったか某男性作家が、「六十過ぎたマリリン・モンローよりも、はたちのただの女がいい」と言って、同席していたわたしは大笑いしたが、自分が六十過ぎのただの女になった今は笑いごとでは済まされない。成熟した女の魅力とか、中身で勝負とかいっても、かなしいかな、それが相手に痛痒するかどうか。自信とうぬぼれの境めが、年をとるにつれてむずかしくなり、恋の情熱に変わりはなくても行動は用心ぶかくならざるをえない。肉体にこだわるかぎり、肉体のひけめがつきまとう。

 中略

 野上弥生子の日記から――
<「女は理解されると、恋されてゐると思ふ」といふアミエルの言葉は忘れてはならない。しかし異性に対する牽引力がいくつになっても、生理的な激情にまで及び得ることを知ったのはめづらしい経験である。これは私がまだ十分女性であるしるしでもある>
 六十八歳(昭和28年)の秋、まだ相手と手紙を交わして相思相愛の間柄へすすむ以前に、こうしるしている。

 中略

 弥生子の恋は、けっして奔放に生きてきた女だからではない。彼女は知的作家の代表格だが、主婦としてもじつに有能かつ勤勉で、三児の母親としてかなり猛烈な教育ママだった。
 わたしは学生時代に一度だけ、野上弥生子の講演を聴き壇上の姿を遠目に仰ぎ見た。ちょうど彼女が恋愛中の七十歳頃にあたるが、もし当時それを知らされていたとしても、壇上の地味な和服姿のおばあさんが、まさか、と信じなかっただろう。

 中略

 恋欲に個人差があるのは、食欲と同じで、年をとって食が細くなる人もいる。小食の人に、もっと食べろと強いてもムダで、はたからおせっかいをやくつもりはないが、恋を忘れて老いていくのは人生を自分からつまらなくしていると思う。人生の持ち時間がだんだん減ってきて、生老病死と人生のはかなさを直視する年齢になったからこそ、恋に生気づいてたのしく暮らしたい。年をとって、酸いも甘いも知ったリアリストになるにつれ、愛情も人をみる目もセチ辛くなって、意地悪や不平の多いおばあさんになりがちだから、恋の復活力はなおさら貴重だ。くり返すが、恋友達でも片思いでもいい。要は、心を老化させないことだ。
 「結婚適齢期」はもう死語になったが、「恋愛適齢期」を勝手にきめてとらわれている男女よ、もっとしぜんに生きましょうと申しあげたい。

                                   「婦人公論」99年7月7日号