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「文章読本 X」 その4 小谷野 敦

2017年04月18日 00時01分47秒 | 文章読本(作法)
 「文章読本 X」 その4 小谷野 敦  中央公論新社 2016年

 「私小説を書く」 P-152

 宇野千代には、自分の人生を描いた小説が、少なくとも二つある。『或る一人の女の話』(1972)と、『生きて行く私』(1983)である。後者はベストセラーになったものだが、前者は純文学の文章で、後者はもっと読みやすい文章で書かれていて、ちょっと面白いが、私は後者のほうが、無理をしていないという気がする。宇野には、『おはん』という短いけれど、10年かけて書いた小説がある。映画や舞台にもなっているが、多くは、10年かけて書いただけあって文章がいいといったことを言う。だた私はむしろ、10年かけて書いただけあって、勢いがなく、こしらえたところが目に立つと思った。

「こしらえる」というのは、事実以上のことを書いてしまうという意味である。だが、私小説や手記でない、フィクションであれば、それはこしらえものだ。ただ、「いかにも作りもの」な感じ、読者を泣かせてやろうという感じがするフィクションには「こしらえもの」という言葉を使う。それが文章にも出ていると、「こしらえたものの感じがする」と言うのである。演劇のほうでは、これを「くさい」と言う。