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「大放言」 その16 百田尚樹

2017年08月14日 00時01分43秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その16 百田尚樹  新潮新書 2015年

 隠れている自分は自分ではない P-31

 しかしそれでも「いや、自分は周囲にまだ本当の姿をみせていない。だから、皆、本当の私を知らないのだ」と反論する向きもあろう。

また「本当の気持ちは違うのに、うまく発言できなかったり、うまく行動できないために、誤解されてきた」と主張する人もいるかもしれない。あるいは「ふだんの日常生活では敢えて本当の自分を出さずに生きてきた」と主張する人たちもたまにいる。

 しかし敢えて言う。それでも周囲の人はあなたを誤解していない、と。
「本当の姿を見せていない」以上は、周囲の人には「本当の姿を見せていないあなた」が「本当のあなた」の姿なのだ。残酷なようだが、うまく発言できないで他人を傷つけてしまったり、本心と違う行動を取ってしまって誤解されることが多くても、それが「あなた」なのだ。

 人は他人の心の中まで見えない。また人前で発揮しない能力は誰も認めてくれない。あなたは話すことができない赤ちゃんではない。まして猫や犬ではない。赤ちゃんなら母親が、ペットなら飼い主が、一所懸命に「この子は今、何を考えているのだろう」と気を配ってくれる。しかしあかの他人は、あなたの内心や隠れた能力にまで気を配ってはくれない。

 自分の本心を出さずに生きてきたという人は、その出さずにいる姿が「本当の姿」なのだ。これは逆に考えてみればすぐにわかる。一度くらい痴漢してみたいなという願望を持っていても、それを押さえ込める理性と良識があれば、その人は変態ではない。ビジネスや酒の席で「こいつ、殴ってやろうか」と思う相手がいても、そういう衝動をきっちりと押さえ込める人は暴力的な人ではない。

 つまり人が評価されるのは、その人がふだん何を言い、どういう行動を取っているかということなのだ。