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「なにぶん老人は初めてなもので」 その1 中沢 正夫

2017年08月24日 00時05分41秒 | 健康・老いについて
 「なにぶん老人は初めてなもので」 その1 中沢 正夫 柏書房 2000年発行

 中沢正夫 紹介
 1937年群馬県に生まれる。精神科医。「探検隊」員として椎名氏らと怪しき活動を行う。

 はじめに

 老いは誰にとってもはじめての体験である。老いについて書かれた万巻の書を読み、千人の先輩の言を聞いていても自分の老いは、はじめての体験である。この世に一人として同じ人間がいない以上、それぞれの老いも別々であって当然である。

 そして老いについて語れるのも、今日までの道程であり、明日からの老いは、自分でもわからない。だから私が語る老いも、自分のこれまでの老いの体験が主になっている。60歳をこえたばかりの私の体験などたかが知れている。80をこえた方々の感じている老いなど想像もつかない。それにもかかわらず、私はこの本で老いとは何かを論じようと思う。

 それには理由がある。ここまで歩いてきてすでに自分がとんでもない思いちがいをしていたことに気づいたからである。それは、老いと老人(高齢者)とはちがうということである。

 一定年齢をこえたことをもって一律に「老い」と規定してしまうため「老い」を一律に、しかも否定的に論じてしまう傾向がある。そこには、一人ひとりの老い、個性がなく特色もない。ノッペラボーな老い像しかない。

 ことに定年後を老いと規定する社会的慣習が定着しているため、それに反発するように均一、ノッペラボーな老いを被った生活をしている人たちが、理想の老いの姿として次々と紹介されている。「人生80年時代」「待ってました定年」というキャンペーンである。そのきらめくような生活はたしかに魅力的だが、その人たちの生活がそれだけであるのではない。語れなかった別の悩みやたたかい、言語化さえむずかしい煩悶をかかえているのがふつううである。

 そのきらめきは生活の一部であっても、老い全体を代表していない。面白そうな花(生活の一部)だけを並べられてもこまるのである。それがない人には失望を与え、これから老いを迎える人には幻想を与えてしまう。