民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
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「大人のための文章教室」 その5 清水 義範

2015年04月18日 00時20分27秒 | 文章読本(作法)
 「大人のための文章教室」 その5 清水 義範 講談社現代新書 2004年

 「自分の出し方をどうするか」 その2 P-184

 そしてもうひとつの、やめたほうがいい自己表現は、「私たちの世代はそうでなかった」的自己表現である。これは男性がよくやり、特に年配の人に多い。具体例を作ってみよう。

「それにしても、民主的家庭像とやらのせいで、近頃家庭の中で父親の権威が失われてしまっているのにはあきれる。お父さんはきたないとか、お父さんは黙ってて、と子に言われてヘラヘラ笑っているというていたらくだ。私たちが子供の頃はそうではなかった。父親には一家の主という威厳があって、父親の前では子供は正座したものだ。こわいのだが、そこには尊敬の念があった。自分もいつかは自分の家族を持ち、家族に幸せをもたらすようにしよう、と自然のうちに教育されていたものだ。」

 ついうかうかとこういうことを書いてる人は多いのだが、どう考えても半分以上は嘘である。つまりこの人は、年配者の論調というものを、自分の体験のように錯覚しているのだ。自分の子供の頃のことなんて考えてもいないのである。

 随筆を書く時、それ用の特別な自分を捏造する必要はないのである。もともとの自分のままで、素直に書けばいい。自分にない個性を演じてもうまくいかないのだ。
 そしてその上で、ほんの少し自分のチャームポイントを匂わせる。つまり、好感を持たれるように演出するということだ。自分の個性のよいところを、うまく伝えられれば随筆は成功である。
 随筆は、さりげない発言であり、そのさりげなさに味わいがある。
 しかし、発言であるからには、読んだ人にいくらかは同感してほしいものだ。その、同感してもらいたいというところに、随筆の色気があって、よくできた随筆を読むと面白いのはそのせいである。

「大人のための文章教室」 その4 清水 義範

2015年04月14日 00時20分46秒 | 文章読本(作法)
 「大人のための文章教室」 その4 清水 義範 講談社現代新書 2004年

 「自分の出し方をどうするか」 その1 P-183

 さてそういう随筆を書いていて、その究極の目的は自分をひとに知らしめたいわけである。私はこういう人間でして、というのをひとに伝えることに随筆の快感があるのだから。
 しかし、どんな風に自分を出すか、というのがむずかしい。臆面もない自慢、と受け止められてはいけないのだから。そういう随筆は読んでもらえない。
 さりげなくて、品がよくて、知性が漂っている、というふうに自分を出せたら最高なのだが、そんなふうに随筆を書けるのは相当の名手である。
 どんなふうに自分らしさを表現すればいいのだろうか。
 実は、その問いに答えはない。なぜなら、そのやり方にこそ、その人らしさ、つまり個性が出るのだから。その人の個性によって、自己表現のしかたもいろいろであって、こう演じたほうがいい、というコツはないのだ。あなたとしては、いろんな随筆を読んで、この人の語り方が肌に合うなあ、というのを真似てみるのがいちばんの策であろう。
 そこで私としては、こういう自己表現のしかたはやめたほうがいいですよ、という悪い例を二つばかりあげておこう。なぜやめたほうがいいかと言うと、読む人にうんざりされるからだ。
 そのひとつは、また私の思いつき的命名だが、「変わり者の私は」的自己表現である。
 これは、自分は変わり者であるということを認めて、むしろそれを前面に出し、普通じゃないけどチャーミングでしょう、という印象を与えようとというものだ。もちろんそのやり方が絶対にいけないわけではなく、作家などがその方式で見事な随筆を書いてしまうことはあるのだが、一般人はあまりやらないほうがいいのである。
 なのに、これが案外多い。主婦の文章、働く女性の文章など、女性に多い気がする。そういうものを読んだ感想は、臭い、である。

 中略

 アドバイス。随筆を書く時は、自分は普通の人間だが、と思っていたほうが読みやすいものが書けます。

大人のための文章教室」 その3 清水 義範

2015年04月12日 02時11分53秒 | 文章読本(作法)
 「大人のための文章教室」 その3 清水 義範 講談社現代新書 2004年

 「実体験にもとづいて書く」 P-179

 さてそこで、あなたが随筆を書いてみる時の、コツと注意点を見ていこう。
 私は既に、随筆の結局の目的は、自分の自慢をすることだと分析してしまったのだが、さて今から書こうという時には、とりあえずそのことは忘れていよう。その意図が見え見えでは、好意的に読んでもらえないからである。
 いかにも知識誇りという感じの文章、あからさまに自画自賛の文章というのは、とりあえずやめておくように注意しよう。著名な大先生の文章ならそれもやむを得ないだろうが、私やあなたのような、どこの馬の骨かよくわからん、という者は偉そうにしないほうが読んで気持ちのいい随筆になるのだ。人にものを教えることを職業にしている人(大学教授とか学校の先生とか)は、特にこのことを強く意識しましょう。
 そして次のコツは、自分の体験にもとづいて書け、ということである。私は先日こんな体験をして、そこからこんなことを考えた、という構造にしろ、ということだ。
 そうではなく、このところ私はある問題についてしきりに考えていて、ようやく結論が見えてきた、という構造はやめたほうがよい。そういう随筆は読もうとした時、入り口でつっかえるのである。非常に読み進みにくいものになってしまう。


「大人のための文章教室」 その2 清水 義範

2015年04月10日 00時12分55秒 | 文章読本(作法)
 「大人のための文章教室」 その2 清水 義範 講談社現代新書 2004年

 「日本を代表する二大随筆」 P-177

 世の中はけしからん、日本人は愚かである。人類は滅亡するしかない、というようなことを書くのが随筆であり、人々を叱りとばすのが知的文化人たる評論家の役目だと思っているかの如しだ。
 私が、日本の随筆文学で『枕草子』と『徒然草』を二つの代表作だと思っているのはそのせいである。
 まず『徒然草』について言えば、あれは日本の知識人が世間を叱りとばし、要するに私を見ならえ、という調子に書いてある辛口評論の原型なのである。昔読んだ『徒然草』に無自覚に影響されて、人は年を取るとああいうお叱り文章が書きたくなるのだ。
 その意味で『徒然草』は日本の随筆の一方の見本なのだと思う。
 そしてもう一方の見本が『枕草子』だ。あれは、女性が書く随筆の原型なのである。
 男の随筆は煎じ詰めると、私は利口だからみんな見ならえ、ということが書いてある。
 それにたいして女性の随筆は結局のところ、私は感性が優れていてセンスがいいのよ、ということが書いてあるのだ。時には自嘲的だったり、失敗談を装っている場合もあるのだが、要するにそこで言いたいのは感性の自慢だというのが女性の随筆なのである。

 中略

 そしてそのことは少しも悪いことではない。人はだれだって、私にならえ、とか、私ってセンスがいいのよ、と言いたいのだ。それをいやがられないようにうまく言ってしまうのが随筆の醍醐味だと言えるくらいだ。
 その意味で、日本人にとっての随筆の二大お手本が、『枕草子』と『徒然草』なのである。

「大人のための文章教室」 その1 清水 義範

2015年04月08日 00時04分31秒 | 文章読本(作法)
 「大人のための文章教室」 その1 清水 義範 講談社現代新書 2004年

 「随筆は書いてみたいものである」 P-172

 前略

 さてそこで、多少なりとも文章を書くことに興味のある人にとって、随筆は書いてみたいものではないだろうか。小説はストーリーを思いつかなきゃいけないので書けないが、随筆なら書けそうな気がするのでは。随筆を書くってのはちょっと知的でいいよな、なんて思うのでは。
 知的なだけではない。随筆を書くことには、自分の体験を書き、人に知らしめるという満足感がある。その体験をして自分がどう思ったかという、考えを伝える喜びも、そしてそういう考えを持つ私とは、そういう感性の人間なのだ、ということを伝える充実感がある。
 文章を書きたいというのは、多くの場合、自分を伝達したい、という欲望から生じているものだ。だとすれば随筆とは、比較的手軽に自分を表現できる文芸であり、ぜひ書いてみたいもののはずである。
 随筆は論説文ではない。私の論でひとを納得させようと、整合性のある論を展開していって結論に至るというものではないのだ。だから、そうこむずかしく理屈をこねなくてもいい。
 私はこんな体験をした。そしてこう思った。
 体験は何でもよくて、どう思おうが自由なのである。理屈が通ってなきゃいけない、というしめつけはない。

 中略

 そこへ行くと『徒然草』は、数多くの断片からなっており、『枕草子』と構造がよく似ている。書いてあるのは、噂話であったり随想であったり教訓であったりして、自由自在のなんでもありだ。この方が日本人の考える随筆に近いのではないか。
 そして『徒然草』には、読んだ人ならみんな同意してくれるだろうと思うのだが、親父の教訓臭が強い。世の中のことが気に食わなくてしょうがない老人が、ぶつぶつと世間に文句を言っているという味わいなのだ。