民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「穏やかな死に医療はいらない」 その2 萬田 緑平

2016年01月11日 00時29分52秒 | 健康・老いについて
 「穏やかな死に医療はいらない」 その2 萬田 緑平  朝日新聞出版 2013年

 治療をやめて自分らしく生きる P-18

 僕の肩書きは「在宅緩和ケア医」。緩和ケアは死に直面した患者さんやそのご家族の心身の痛みを予防したり、和らげたりすることを言いますが、僕は最後まで自宅で暮らしたいという患者さんのお宅に伺い、緩和ケアを行っています。

 中略

 治療を諦めると思うと、「死ぬのを待つだけ」になってしまいます。しかし、「やめる」と主体的に捉えれば、自分らしく生きることにつながります。言葉をひねくり回しただけとお叱りがきそうですが、僕としてはこの大きな違いを患者さんやご家族に何とかして伝えたいのです。
 治療をやめることで、穏やかに、自分らしく生き抜いて、死ぬことができます。これはがん患者さんに限ったことではありません。終末期を迎える、すべての人に言えることです。
 でも、今の日本で治療をやめる選択をするのは、簡単ではありません。病院も、医師も、ご家族も、そして患者さん自身も、「治療を続ければ生き続けられる」と思い込んでいるからです。

 萬田 緑平(まんだ りょくへい)
1964年生まれ。群馬大学医学部卒業。群馬大学付属病院第一外科に所属し、外科医として手術、抗がん剤治療、胃ろう造設などを行うなかで終末ケアに関心を持つ。2008年、医師3人、看護師7人から成る「緩和ケア診療所・いっぽ」の医師となり、「自宅で最後まで幸せに生き抜くお手伝い」を続けている。


 

「桜もさよならも日本語」 その10の2 丸谷 才一

2016年01月07日 00時12分15秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 その10の2 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 10、話し上手、聞き上手を育てよう 

 次は聞き方。
 聞き方で大切なのは、相手が一言いふたびに口をはさまずに、まとめてものを言はせ、必ずしも相づちを打たなくていいから、遠慮しないで語れと表情その他でおだやかに励まし、しかも、その意見の大筋をたどつて、枝葉のところにこだはらずに論旨をとらへることである。つまり一つながりの論述のなかで、大事な部分とさほどではない部分とを区別し、後者にはとらはれないで前者に留意するわけだ。
 さういふ聞き方をしたことは、次に聞き手が口を開いたときの話し方でわかる。部分的に問題があつてもそれへの反対は軽く触れるだけにし、大局で判断して、大筋のところで賛成なら賛成、反対なら反対するのである。これでゆけば議論はゲームに近いものになつて、その分だけ中身が濃くなるし、わだかまりが残る可能性もすくなくなるだらう。そして子供のときからこんな話し方と聞き方を習つてゐれば、おのづから話し上手、聞き上手な大人がふえて、今の日本で横行してゐるやうな、まくし立て、こけおどかし、揚げ足取り、言ひのがれ、言ひ抜け、言ひががり、水かけ論、空念仏、生返事、空理空論、すれ違ひははやらなくなる・・・見込みがかなりある。

「桜もさよならも日本語」 その10の1 丸谷 才一

2016年01月05日 01時36分26秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 その10の1 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 10、話し上手、聞き上手を育てよう 

 国語教科書を読んでわたしが最も不満に思つたのは、話し方と聞き方を教へようとしないことだつた。この二つは今の日本語の重要課題であるはずなのに、編纂者たちはいつこう気にしてゐないらしい。

 中略

 まづ話し方。
 これは声の出し方からはじまる。一音づつはつきりとゆつくり言ふのが日本語の約束で、早口に、ロレつた言ひ方をしてはならないと、耳にタコが出来るくらゐ仕込まなければならない。
 これには、狂言師の声の出し方が、ぢかにまねるといふわけではないにしても、参考になるはずだ。さいはひ二つの教科書で狂言「附子(ぶす)」を収めてゐる。ところが両方とも、おしまひの解説で、発声法に一言も触れようとしないのはなぜだろうか。現場ではぜひ、テープを聞かせて、かういふ口の聞き方が日本語の基本だった(基本である)と教へてもらひたい。
 声の出し方の次は言葉の選び方で、相手がよく知らない(さらには自分でも意味がはつきりしない)難語や、誤解の余地のある符丁めいた言葉を避けること。これだけで話の質はずいぶんあがるし、向こうによく通じるやうになる。
 第三は、論理の筋をきちんと通しながら、しかし優しく語ること。この両立は、『草枕』の出だしではないけれど、なかなかむづかしい。今までの日本人はどうも、筋道を立てて言ふと冷たくなり、情愛がこもるとただ情愛だけになりがちだつた。つまりこれは社会がまだよく知らないことだから、学校が教へるしかないのである。

「桜もさよならも日本語」 その9 丸谷 才一

2016年01月03日 00時20分16秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 その9 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 9、古典を読ませよう

 (前略)今の教科書の『奥の細道』はたいてい、

 月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。

とはじまるテクストを使ふ。岩波『日本古典文学体系』本に従つてゐるのである。しかしわたしには、ハクタイはどうも納得がゆかない。
 この書き出しは李白の『春夜、桃季(とうり)園ニ宴スルノ序』の「夫レ天地ハ万物ノ逆旅、光陰ハ百代ノ過客ナリ」によるものだが、ハクタイと読むのは、おそらく芭蕉が読んだと推定される『古文真宝後集』和刻本のこの箇所に「百(はく)代」と仮名が振ってあるからだ。「百」がハクと漢音でゆく以上、「代」も漢音でタイと、元禄の俳諧師が読んだにちがひないといふ考証は、学問的には貴重なものだらう。だが、現代の普通の読者が『奥の細道』を読むには、ヒャクダイで一向かまはないではないか。

 中略

 これではとても古典に親しんだといふわけにはゆかないし、第一かう断片的では興味が湧くはずがない。もつと長いものをたくさん読ませなければ話にならないのである。現状では、ただ申しわけに古典の匂ひを嗅がせてゐるだけのやうな気がする。
 それに、文語文の分量が決定的にすくないのもいかがなものか。明治の漢文くづしや江戸の擬古文も入れて文語体になじませるほうがいいし、さらに言へば、漢文の初歩も手ほどきするのが正しい。
 これは反動的な意見ではない。現代日本文明にとつてさしあたり大事なのは、明確精細にものごとを伝達する散文を社会一般のものにすることなのだが、この能力の下地になるのは、意外なことに、古文と漢文の素養にほかならない。そのへんの事情をうんと大がかりにすれば、夏目漱石と森鴎外はなぜあのやうな口語文を書けたかといふ話になるだらう。

 中略

 年少者の学力や体験を考へず、『源氏』や『史記』のやうな超一流の古典をほんのちよつぴり教へようとするのは、体裁としての学問を尊ぶ態度である。そこには、「月日はハクタイの過客」といふテクストを選ぶ姿勢と共通するものがあるやうな気がする。

「桜もさよならも日本語」 その8 丸谷 才一 

2016年01月01日 00時39分34秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 その8 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 8、子供に詩を作らせるな

 まつたく十年一日の感があるが仕方がない。もう一度、子供に詩をつくらせるのはよくないといふことを書く。 
 第一の理由は、詩は書くのがむづかしいからである。散文は、上手下手はともかく、書けばいちおう散文が出来あがる。しかし詩となるとさうはゆかない。詩作のためには豊かな詩情ときびしい言葉の修練が必要である。その二つを持ち合わせてゐる大人だつて滅多にゐないのに、小学生が全員、詩を書けるはずがない。
 第二の理由は、現代日本では詩とは何かといふことが明らかでないからである。文語文から口語文へ移つてから、日本の詩は韻律と別れ、自由詩が標準的な形となつた。このせいで、単なる散文を行分けにしたものと、詩とは、素人目にも区別がつかないのぢゃないか。本職の詩人を含めて社会全体が、詩とはなにかがわからずにゐるとき、小学生に詩を書けと要求するのは乱暴な話だらう。
 今の教科書には、「主題をしっかりつかんで詩をかこう」とか、「気もちがはっきりあらわれるようにいきいきしたことばで書こう」とか、むやみに調子のいいことを言つて詩作をすすめる教材が多いし、それには小学生の作が見本のやうに添へてある。しかし、うんと見方を甘くしても、ほとんどすべてが詩ではない。さういふものを引用して論評することは避けよう。文明の悪条件を妙な具合にせおつて苦労してゐる子供たちの姿が痛々しくて、とてもそんな気にはなれない。
 子供には詩は書かせないで、しかし詩を読ませやう。大人の詩人が書いた本物の詩のなかの、子供向きのものを。(後略)