民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「文章読本 X」 その5 小谷野 敦 

2017年04月20日 00時23分10秒 | 文章読本(作法)
 「文章読本 X」 その5 小谷野 敦  中央公論新社 2016年

 「新聞的紋切り型」 P-153

 文芸評論の文書に毒されるのも良くないが、新聞の文章に似るのも良くない。「朝日新聞」の「天声人語」を書き写させる本などが出ているが、論外である。新聞記者の文章は、紋切り型が多く、よくない文章の見本と言うべきものである。

 新聞の、ニュースではないコラム記事でよく使われ、しかし避けるべき表現としては、

「ことほどさように」
「とりもなおさず」
「とりざたされている」
「が叫ばれている今日」
「のそしりを免れない」
「が許されるわけではない」
「に喝采を送りたい」
「・・・と言ったら楽観的すぎるだろうか」
「なんとも後味が悪い結末だった」
「うれしい悲鳴をあげている」
「・・・というのだから恐れ入る」

 以下略

「文章読本 X」 その4 小谷野 敦

2017年04月18日 00時01分47秒 | 文章読本(作法)
 「文章読本 X」 その4 小谷野 敦  中央公論新社 2016年

 「私小説を書く」 P-152

 宇野千代には、自分の人生を描いた小説が、少なくとも二つある。『或る一人の女の話』(1972)と、『生きて行く私』(1983)である。後者はベストセラーになったものだが、前者は純文学の文章で、後者はもっと読みやすい文章で書かれていて、ちょっと面白いが、私は後者のほうが、無理をしていないという気がする。宇野には、『おはん』という短いけれど、10年かけて書いた小説がある。映画や舞台にもなっているが、多くは、10年かけて書いただけあって文章がいいといったことを言う。だた私はむしろ、10年かけて書いただけあって、勢いがなく、こしらえたところが目に立つと思った。

「こしらえる」というのは、事実以上のことを書いてしまうという意味である。だが、私小説や手記でない、フィクションであれば、それはこしらえものだ。ただ、「いかにも作りもの」な感じ、読者を泣かせてやろうという感じがするフィクションには「こしらえもの」という言葉を使う。それが文章にも出ていると、「こしらえたものの感じがする」と言うのである。演劇のほうでは、これを「くさい」と言う。


「文章読本 X」 その3 小谷野 敦 

2017年04月16日 00時06分12秒 | 文章読本(作法)
 「文章読本 X」 その3 小谷野 敦  中央公論新社 2016年

 「文章を削ることの建前と真実」 P-48

 文章をよくする要諦は削ることだという意見がある。志賀直哉を褒める時などに用いられる。これはある面では正論である。削る時に、一番削るべきものは、副詞である。「非常に」の類である。2011年の東北の大地震のあと、「被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます」といった文言があちこちに出ているが、私はあの「心より」は、常套句であって、そういう文言を出すのは組織の通弊なのだろうと思いつつ、「心より」があるために、いかにもおざなりな感じを受けるのである。

 さて、実際には作家でも、削らない人は多い。社会派推理小説や警察小説などで、最近は上下二巻の分厚い小説が書かれることが多いが、あれは明らかに削らず、むしろ水増ししている。そのため、私などが読むとどんどん飛ばし読みしても筋が分かる。水増ししたほうが、大衆には分かりやすいからだ。

 この「削る」については、建前と真実が乖離しているので詳しく書いておく。志賀直哉の文章を例にあげて、削って削って短くするのがいい、と唱える者がいるが、小説であれば、削ると短編になってしまう。しかし短編ばかり書いていても、作家の生計が成り立たないので、ふくらませて長編にするということが少なくないのである。

 以下略

「文章読本 X」 その2 小谷野 敦

2017年04月14日 00時23分57秒 | 文章読本(作法)
 「文章読本 X」 その2 小谷野 敦  中央公論新社 2016年

 「文章がうまい、とは何か」 P-18

 前略

 人はかっこうをつけたがって、別に周知のことでもないものを、「周知のこと」と書きたがるものである。「人形浄瑠璃を今日文楽と言うのは、明治時代に大阪で上村文楽軒が文楽座という人形浄瑠璃の小屋を運営していたからであることは、今さら言うまでもない」といった類である。これは、国文学者が国文学者相手に書く分にはいいようだが、逆に国文学者なら、それこそ言うまでもないから書かないだろう。言うまでもないなら書かなければいいのに、書いてしまうのが病である。

「知れ切ったことだ」というのは小林秀雄のよく使っていた言葉だが、これも嫌味で、知れ切っているなら書かなければよいのである。概して、文芸評論のまねをしようとすると、文章は悪くなる。私は今でも、さすがに「周知のとおり」はやらないが、「言うまでもなく」は書きそうになってあわてて消すことがある。またこれに類する言い回しとして「を引くまでもなく」がある。

 後略

「文章読本 X」 その1 小谷野 敦

2017年04月12日 23時57分53秒 | 文章読本(作法)
 「文章読本 X」 その1 小谷野 敦  中央公論新社 2016年

 「はじめに」 P-7

 私は『文章読本』を書こうとしているのだが、現代においてこれは蛮勇を要することである。だいたい、私は名文家ではない。むしろ悪文と言われることが多い。だが、ここでは、名文を書く方法について記そうとしているのではない。むしろ、伝えるべきことを正しく伝えようとすると、悪文になりやすい、ということを言い、そのような悪文を勧めようとしているのである。正しく伝えて、なお名文、というのも、可能性としてないではない。だが、一般の人がそんな高度な文章力を身につけられるはずがないのであって、一般の人は、内容が曖昧模糊な名文よりも、内容的には正確な悪文を書くべきだ、と言おうとしているのである。

 以下略