民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「大放言」 その6 百田尚樹

2017年06月20日 00時13分26秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その6 百田尚樹  新潮新書 2015年

 「私は寝てないんだよ」 その2 P-14

 今の例は少し極端に過ぎたかもしれない。
 しかし現代では、どんな一言でも集中砲火を浴びる危険が待っている。学者や文化人も、論文や論説の一部を切り取られ、あるいはその主張をねじ曲げられ、メディアやネットでも非難囂々の憂き目にあうことは珍しくない。下手をすれば、学者生命、文化人生命を失いかねない。

 その結果、多くの人が八方美人的な発言しかしなくなった。誰も傷つけない毒にも薬にもならない大人のセリフしか言わなくなったのだ。テレビに出てくるコメンテーターと呼ばれる人たちのクソ面白くないセリフはどうだ。

「尖閣諸島で領海侵犯を繰り返す中国漁船など撃沈してしまえ」と言うコメンテーターなど一人もいない。「憂慮すべき事態ですね」というような毒にも薬にもならないコメントばかりだ。憂慮すべき事態とわかっているなら、どうすべきかはっきり言えよと言いたい。すると「双方の政府が歩み寄って解決するのを願うばかりです」「話し合うことが大切です」というようなセリフしか出ない。


「大放言」 その5 百田尚樹

2017年06月18日 00時10分16秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その5 百田尚樹  新潮新書 2015年

 「私は寝てないんだよ」 その1 P-12

 会見の席上で述べた正式な発言でなく、記者との会話の中でひょいと飛び出した言葉でもメディアは容赦しない。
 たとえば10数年前、集団食中毒事件を起こした某食品メーカーの社長が言った「私は寝てないんだよ」という言葉は、不祥事を起こした企業のトップの許されざる開き直り発言として、マスコミから大バッシングされた。

 しかしそれほどまでに糾弾される言葉であろうか。これは、1週間はほとんど不眠で原因調査をしていた社長が、謝罪会見の後、会社のエレバーターの前で記者につかまって強引にインタビューされた場での発言だ。この時はまだ食中毒の原因が不明だったが、「わかったら発表します」と言う社長に対して、記者は何か事実を隠しているんだろうと、インタビューの継続を迫った。疲れ切っていた社長は、「では、あと10分」と言った。すると記者は「何で時間を限るのですか」と詰問した。そこで出たのが「そんなこと言ったってねえ、私は寝てないんだよ」というセリフだ。

 この言葉に、正義に燃えるマスコミは食らいついた。まさしくピラニアのごとく一斉に襲いかかった。週刊誌は大きな問題発言として大々的に書き、テレビ局は連日あらゆるニュースで「私は寝てないんだよ」と言うシーンだけの映像を流し続けた。「不祥事を起こしておきながら、とんでもない逆ギレをする社長」というイメージを社長に与えまくったわけだ。そして会社を倒産に追い込むまで許さない、という猛攻撃が始まったはっきり言って食中毒を起こした構造よりも、この時の社長の発言のほうを「悪」と捉える報道だった。

 ちょっと冷静になれよとと言いたくなる。1週間はほとんど寝ていなかったら、それくらいの言葉はつい誰でも言ってしまうだろう。私なら確実に言う。しかし社長を責める人たちは、「会社が起こした不祥事の責任を感じているのなら、そんな言葉は出てこないはずだ!」という精神論で話をしている。こうなると、もはや論理は通じない。

「大放言」 その4 百田尚樹

2017年06月16日 00時06分43秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その4 百田尚樹  新潮新書 2015年

 「言葉狩り」の時代 その2 P-11

「黒人差別をなくす会」に差別的表現を指摘された漫画界の巨匠・手塚治虫氏の名作『ジャングル大帝』は一時、出荷停止に追い込まれた。黒人の唇が厚く描かれていたという理由で、だ。名作絵本『ちびくろサンボ』も、サンボというタイトルが差別語ということで、絶版に追い込まれた。(いずれも表向きは出版社の自主絶版)

 当時は似たような事例がいくつもあった。いずれも作品全体の意図を読み取ることなく、部分的な表現に問題があるというだけで作品そのものを全否定する運動だった。

 その後、言葉狩りの運動は下火になったが、それがきっかけとなり、いつのまにか世の中全体が言葉や表現に敏感になってしまったように思う。

 この流れはいつしか「個人的な発言」にまで及ぶようになった。それらは次第にエスカレートし、昔なら笑って済ませていたような発言もだんだんと許されない風潮になってきた。おおらかな時代なら、不倫交際しているタレントが「もてるんだからしかたがないじゃん」と言ったところで許してもらえただろう。実際、昔は「女は芸の肥やしだ」と、女遊びを公言する芸人はいくらでもいた。芸人とはある意味、破天荒な生き方をする人種で、ファンもまたそうした行動や言動を非難しつつ、一方では面白がって受け入れた。

 しかし現代はそうではなくなった。有名人、タレント、あるいは大会社の取締役などが、ちょっとした一言で、メディアやネットで集中砲火を浴び、社会的に抹殺に近い状況に追い込まれている。


「大放言」 その3 百田尚樹

2017年06月14日 00時01分05秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その3 百田尚樹  新潮新書 2015年

 「言葉狩り」の時代 その1 P-10

 いつの頃からか、日本人はその言葉の裏にある真意よりも、表面上の言葉にだけ反応するようになった。典型的なのが、昭和50年代に起きた一連の言葉狩りである。
 もともとは差別に抗議する団体が中心になって行った運動がきっかけだったが、やがてそれは社会全体を飲み込み、巨大な力となった。

「その言い方は差別だ!」「その表現は許さない!」とメディアや世論が大合唱して、多くの表現者や作品を追い込んだ。国民的作家である司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』の中の「ちょうりんぼう」という言葉が差別語であるとして、司馬氏は解放センターに呼び出されて糾弾された。幸い『竜馬がゆく』は絶版にはならなかったが、問題とされた言葉は修正されることになった。江戸時代の物語であるのに、当時使われていた言葉(歴史用語)が使えないというのは不合理極まりないが、それほど糾弾は激しかったということだ。


「大放言」 その2 百田尚樹

2017年06月12日 00時01分52秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その2 百田尚樹  新潮新書 2015年

 まえがき その2 P-8

 少し前になるが、妻子がありながら独身モデルと付き合っていたある男性タレントが「不倫は文化ですよ」と発言したということで大バッシングされた。その結果、彼は一時仕事のほとんどを失い、住んでいたマンションまで売り払うことになった。

 だが、実は彼はそんな発言はしていなかった。不倫交際を記者に非難された彼は「文化や芸術といったものが不倫から生まれることもある」と軽口で反論したのだが、それを前述のような言葉で報道され、タレント生命を絶たれる寸前まで追い込まれた。

 当たり前のことだが「文化や芸術が不倫から生まれることもある」と「不倫は文化だ」はまったく意味が違う言葉だ。悪意ある曲解報道もひどいが、仮に彼が本当に「不倫は文化だ」と言ったとしても、それがどうだと言うのだ。昔も今も浮気をしていないタレントの方が少ないくらいだ。そんなことは芸能記者やレポーターならみな知っている。しかし他の不倫をしている多くのタレントは件の男性タレントほどは叩かれない。なぜか――それは放言をしないからだ。

 昔から日本は本音と建前がくっきりと分かれた国だが、最近になってそれが極端な形になってきているような気がする。だから浮気をしていても(建前上)殊勝にさえしていれば許されるが、それを(本音で)堂々と開き直って言葉にすると、とんでもないことになる。そう、問題は言葉にするかしないか、なのである。

 後略